の湯の技倆《ぎりょう》は少しけばけばしいが確であった。
 作法が終ると、老主人は袴《はかま》を除《と》って、厚い綿入羽織を着て現われた。炉に噛《かじ》りつくように蹲《かが》み、私たちにも近寄ることを勧めた。そして問わず語りにこんな話を始めた。
 徳川三代将軍の頃、関西から来て、江戸|廻船《かいせん》の業を始めたものが四五軒あった。
 その船は舷側《げんそく》に菱形《ひしがた》の桟を嵌《は》めた船板を使ったので、菱垣船《ひしがきぶね》と云った。廻船業は繁昌《はんじょう》するので、その廻船によって商いする問屋はだんだん殖え、大阪で二十四組、江戸で十組にもなった。享保時分、酒樽は別に船積みするという理由の下に、新運送業が起った。それに倣《なら》って、他の貨物も専門専門に積む組織が起った。すべて樽廻船《たるかいせん》と云った。樽廻船は船も新型で、運賃も廉《やす》くしたので、菱垣船は大打撃を蒙《こうむ》った。話のうちにも老主人は時々神経痛を宥《ゆる》めるらしい妙な臭いの巻煙草《まきたばこ》を喫《す》った。
「寛永時分からあった菱垣廻船の船問屋で残ったものは、手前ども堺屋と、もう二三軒、郡屋《こお
前へ 次へ
全114ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング