して、そこにあった盃を執り上げると、ちょろりとあたしの鼻の先へ雫《しずく》を一つ垂らして、ここのところのペンキが剥《は》げてら、船渠《ドック》へ行って塗り直して来いと云うんです。あたしは口惜しいの何のって、……でもね、そうしたあとで、あの人を見ても、別に意地の悪い様子もなく、ただ月の出を眺めてるようにぼんやりお酒を飲んでいる調子は、誰だって怒る気なんかなくなっちまいますわ。あたしは、つい、有難うございますとお叩頭《じぎ》して指図通り、顔を直しに行っただけですけれど、全く」と年下の芸妓は力を籠《こ》めた。
「全く、お嬢さんでなくても、木ノさんには匙《さじ》を投げます」と云った。
 新造卸しの引出物の折菓子を与えられて、唇の紅を乱して食べていた雛妓《おしゃく》が、座を取持ち顔に、「愛嬌喚《あいきょうわめ》き」をした。
「結婚しちまえ!」
 これに対しても娘は真面目に答えた。
「厄介なのは、そんなことじゃないんだよ」「そもそも、お嬢さんに伺いますが、あんたあの方に、どのくらい惚《ほ》れていらっしゃるんです。まあ、お許婚《いいなずけ》だから、惚れるの惚れないのという係り筋は通り越していらっしゃ
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