の好景気につれ、東京の下町で夫婦共稼ぎの一旗上げるつもりで上京して来た。そういう夫婦の例にままあるとおり無理算段をして出て来た近県の衰えた豪家の夫妻で、忽《たちま》ち失敗した上、夫は病死し妻は、今更故郷へも帰れず、子を捨てて、自分は投身しようとしたが、子のことが気にかかり、望みを果たさなかった。そして西河岸の同じ町内に女中奉公をして、陰ながら子供の様子を見守っていたのだった。
 堺屋では、男の児の母を家政婦みたように使うことになった。母は忠実によく勤めた。が、子供のことに係ると、堺屋の妻とこの母との間に激しい争いは絶えなかった。
 一度捨てたものを拾って育てたのだから、この子はわたしのものだと、堺屋の妻は云った。一度は捨てたが、この子のために死に切れず、死ぬより辛い恥を忍んで、世間へ名乗り出ることさえした位だから、この子はもとより自分のものだと、木下の母は云った。
「よく考えてみれば、僕にとっては有難いことなのでしょうが、僕は物心ついてから、女のこの激しい争いに、ほとほと神経を使い枯らし、僕の知る人生はただ醜い暗いものばかりでした」
 生憎《あいにく》なことに、木下は生みの母より、堺屋の妻の方が多少好きであった。
「堺屋のおふくろさんは、強情一徹ですが、まださっぱりしたところがありました。が、僕を自分ばかりの子にして仕舞いたかった気持ちには、自分に男の子がないため、是非欲しいという量見以外に、堺屋の父親が僕をとても愛しているので、それから牽《ひ》いて、僕の生みの母親をも愛しはしないかという心配も幾らかあったらしいのです。こういう気持ちも混った僕への愛から、堺屋のおふくろは、しまいには僕だけ自分の手元にとどめて、母だけ追出そうとしきりに焦ったのです。それでも堺屋の母はただ僕の母に表向きの難癖をつけたり、失敗を言い募ったりする、まだ単純なものでした」
 ところが、木下の生みの母はなかなか手のある女だった。
「一度こういうことがありました。堺屋のおふくろが、僕に掻餅《かきもち》を焼いて呉《く》れていたんです。その側には僕の生みの母親もいました。堺屋のおふくろは、焼いた掻餅を普通に砂糖醤油《さとうじょうゆ》につけて僕に与えました。すると僕の母はそれを見て、そっとその掻餅を箸《はし》で摘み取り、ぬるま湯で洗って、改めて生醤油《きじょうゆ》をつけて、僕に与えました。僕は子供のう
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