れませんが……いやあなたばかりではない、あれにもまだ判っていない……」
 彼はしまいを独言にして一番肺の底に残して置いたような溜息《ためいき》をした。私は娘の身の上を心配するについての曾《かつ》ての焦立《いらだ》たしい気持ちに、再び取りつかれ、ついこういってしまった。
「多分あなただけのお気持ちでしょう、そんなこと、私たちには判らなかったからこそ、あの娘さんは死ぬような苦しみもし、何のゆかりも無い私のようなものまで、おせっかいに飛び出さなくてはならない羽目に陥って仕舞ったのですわ。」
 私の語気には顔色と共にかなり険しいものがあったらしい。すると、彼は突き立てている膝《ひざ》と膝との間で、両手の指を神経質に編み合せながら、首を擡《もた》げた。
「ご尤《もっと》もです。しかし、僕自身の気持ちが、僕にはっきり判ったのも、矢張りあなたが仲に入られたお陰なんです。その前まではただ何となくあの娘は好きだが、あの娘も女だ。あの娘も女だという事が気に入らない。ぼんやりこの二つの間を僕は何百遍となく引ずり廻《まわ》されていました。僕とて永い苦しい年月でした。ま、とにかく、僕の身の上話を一応|訊《き》いて下さい。第一に僕の人生の出発点からして、捨子という、悲運なハンディキャップがついているんです。」
 彼の語り出した身上話とは次のようなものであった。


 東京の日本橋から外濠《そとぼり》の方へ二つ目の橋で、そこはもはや日本橋川が外濠に接している三叉《さんさ》の地点に、一石橋がある。橋の南詰の西側に錆《さ》び朽ちた、「迷子のしるべの石」がある。安政時代、地震や饑饉《ききん》で迷子が夥《おびただ》しく殖えたため、その頃あの界隈《かいわい》の町名主等が建てたものであるが、明治以来|殆《ほとん》ど土地の人にも忘れられていた。
 ところが、明治も末に近いある秋、このしるべの石の傍に珍らしく捨子がしてあった。二つぐらいの可愛《かわい》らしい男の子で、それが木下であった。
 その時分、娘の家の堺屋は橋の近くの西河岸に住宅があったので、子のない堺屋の夫妻は、この子を引き取って育てた。それから三年して、この子が五つになった時分に、近所に女中をしていた女が、堺屋に現れて、子供の母だと名乗り出た。彼女は前非を悔い、不実を詫《わ》びたので、堺屋ではこの母をも共に引き取った。
 母は夫と共に日露戦役後の世間
前へ 次へ
全57ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング