妙なことになって、婿の口も思うほどのことはございませんでして……」
娘は殆《ほとん》ど裁きを受ける女のように、首を垂れて少し蒼《あお》ざめていた。私は、
「もう、よろしいじゃございませんか、お話しは、また、この次に……」
と云ったが、老父は、
「いや、そうじゃございません。手前は明日が明日からまた寝込んでしまって、いつこの次にお目にかかれるか判りません。それで……」と意気込んで来た。老父には真剣に娘の身の上を想《おも》う電気のようなものが、迸《はし》り出した。
「私の知らない間に、娘がちょっろりと、あなたさまに部屋をお貸ししたと聞いて、実は私は、怒りました。しかし、娘はあなたさまの御高名を存じて居り、お顔も新聞雑誌で存じ上げて、かねてお慕い申していたので、喜んでお貸ししたと申します。私も思い返してみれば、あなたさまが世間のことは何事も御承知の筆をお執りになる方である以上、却《かえ》って、何かの便宜にあずかれるかも知れない。それで娘にもよく申付けて、お仕事にはお妨げにならないよう、表の事務室は人に貸すことは止めて仕舞い、また、是非、お近付き願えるよう、気を配って居りました。どうぞ、これから、これを妹とも思召《おぼしめ》し下すって、叱《しか》っても頂き、お引立てもお願いいたし度《た》いのです。どうぞお願い申します」
老父は右手の薬煙草《くすりたばこ》をぶるぶる慄《ふる》わして、左の手に移し、煙草盆に差込むと、開いた右の手で何処へ向けてとも判らず、拝むような手つきをした。それは素早く軽い手つきであったが、私をぎょっとさせた。娘も、それにつれて、萎《しお》れたままお叩頭《じぎ》した。
老父のそこまでの話の持って来方には、衰えてはいるようでも、下町の旧舗《しにせ》の商人の駆け引きに慣れた婉曲《えんきょく》な粘りと、相手の気の弱い部分につけ込む機敏さがしたたかに感じられた。
私は娘に対して底ではかなり動いて来た共感の気持ちも、老父の押しつけがましい意力に反撥《はんぱつ》させられて、何か嫌あな思いが胸に湧《わ》いた。しかし、
「まあ、私に出来ますことは……」と、かすかな声で返事しなければならなかった。
電気行灯《でんきあんどん》の灯の下に、竃河岸《へっついがし》の笹巻の鮨《すし》が持出された。老父は一礼して引込んで行った。首の向きも直さず、濃く煙らして、炉炭の火を見詰
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