の湯の技倆《ぎりょう》は少しけばけばしいが確であった。
作法が終ると、老主人は袴《はかま》を除《と》って、厚い綿入羽織を着て現われた。炉に噛《かじ》りつくように蹲《かが》み、私たちにも近寄ることを勧めた。そして問わず語りにこんな話を始めた。
徳川三代将軍の頃、関西から来て、江戸|廻船《かいせん》の業を始めたものが四五軒あった。
その船は舷側《げんそく》に菱形《ひしがた》の桟を嵌《は》めた船板を使ったので、菱垣船《ひしがきぶね》と云った。廻船業は繁昌《はんじょう》するので、その廻船によって商いする問屋はだんだん殖え、大阪で二十四組、江戸で十組にもなった。享保時分、酒樽は別に船積みするという理由の下に、新運送業が起った。それに倣《なら》って、他の貨物も専門専門に積む組織が起った。すべて樽廻船《たるかいせん》と云った。樽廻船は船も新型で、運賃も廉《やす》くしたので、菱垣船は大打撃を蒙《こうむ》った。話のうちにも老主人は時々神経痛を宥《ゆる》めるらしい妙な臭いの巻煙草《まきたばこ》を喫《す》った。
「寛永時分からあった菱垣廻船の船問屋で残ったものは、手前ども堺屋と、もう二三軒、郡屋《こおりや》と毛馬屋《けまや》というのがございましたそうですが……」
しかし、幕末まえ頃まで判っていたその二軒も、何か他の職業と変ったとやらで、堺屋は諸国雑貨販売と為替《かわせ》両替《りょうがえ》を職としていた。
それから話はずっと飛んで、前の話とはまるで関係がないものを、強いてあるような話ぶりで、老主人は語り継いだ。
「河岸の事務室を開けて、貸室に致しましたのも窮余の策で、実は、この娘に結婚させようという若い店員がございますのですが、どうも、その男の気心がよく見定まりません。いろいろ迷った揚句、どなたか世間の広い男の方にでも入って頂いて、そういう方々ともお付合いしてみて、改めて娘の身の振り方を考え直してみましょう。まあ、打ち撒《ま》ければ、こういった考えがござりましたのです」
娘は俯向《うつむ》いて、赧《あか》くなった。
「なにせ、私どもの暮しの範囲と申したら、諸国の商売取引の相手か、この界隈《かいわい》の組合仲間で、筋が定まり切っているだけ、広いようで案外狭いのでございます。それにこの娘が一時どういう気か学者になるなぞと申して、洋服なぞ着て、ぱふらぱふらやったものですから、いよいよ
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