。だが、忍川というのは知らなかった。
「あの上野の三枚橋の傍に、忍川という料理屋がありましたが、あの近所にそんな名の川がありましたの、気がつきませんでしたわ」
「川にも運命があると見えまして、あの忍川なぞは可哀想《かわいそう》な川でございます。あなたさまは、王子の滝ノ川をご存じでいらっしゃいましょう」
むかし石神井《しゃくじい》川といったその川は、今のように荒川平野へ流れて、荒川へ落ちずに、飛鳥山、道灌山、上野台の丘陵の西側を通って、海の入江に入った。その時には茫洋《ぼうよう》とした大河であった。やがて石神井川が飛鳥《あすか》山と王子台との間に活路を拓《ひら》いて落ちるようになって、不忍池《しのばずのいけ》の上は藍染《あいぞめ》川の細い流れとなり、不忍池の下は暗渠《あんきょ》にされてしまって、永遠に河身を人の目に触れることは出来なくなった。
「大昔、この川の優勢だったことは、あの本郷|駒込台《こまごめだい》とこちらの上野|谷中台《やなかだい》との間はこの川の作った谷合いだと申します。調べると両丘にはその川の断谷層がいまだにごさいます」
私の蕩々《とうとう》としている気分の中にも、この娘の語ることが、もはや単純な下町娘の言葉ではなく、この種の智識にかけては一通り築きかけたもののあるのを見て取った。慎《つつま》しく語ろうと気をつけている言葉の端々に関東ローム層とか、第三紀層とかいう専門語が女学校程度の智識でない口慣れた滑らかさでうっかり洩《も》れ出すのを、私の注意が捉《とら》えずにはいなかった。
「とてもそういうお話にお詳しいのね。どうしてあなたが、こう申しちゃ何ですけれど、下町のお嬢さんのあなたが、そういう勉強をなさったのですか、素人にしちゃあんまりお詳しい……」
娘は、
「河岸に育ったものですから、東京の河に興味を持ちまして……それに女子大学に居りますうち、別にこういうことに興味を持つ友達と研究も致しましたが……」と俯向《うつむ》いて云うと、そこで口を噤《つぐ》んだ。
「たった、それだけで、こんなにお詳しい?」
私は、娘の言訳が何かわざとらしいのを感じた。何かもっと事情ありげにも思ったが、私はまたしてもこの家の人事に巻き込まれる危険を感じたので、無理に気を引締めて、もっと追求したい気持ちは様子に現わさなかった。
こうして親しげに話していて、隣に座っている娘
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