ことを懐《おも》わせた。
私も娘も二人きりで遠慮なく食べた。私は二三町も行けば大都会のビジネス・センターの主要道路が通っているこの界隈《かいわい》の中に、こうも幻想のような部屋のあるのを不思議とも思わなくなり、また、娘がいつもと違った人間のようにしみじみして来たことにも、たって詮索心《せんさくしん》が起らず、ただ、あまりに違った興味ある世界に唐突に移された生物の、あらゆる感覚の蓋《ふた》を開いて、新奇な空気を吸収する、その眠たいまでに精神が表皮化して仕舞う忘我の心持ちに自分を托《たく》した。一つにはこの庭と茶室の一劃《いっかく》は、蔵住いと奥倉庫の間の架け渡しを、温室仕立てにしてあるもので、水気の多い温気が、身体を擡《もた》げるように籠《こも》って来るからでもあろう。
蘭科《らんか》の花の匂いが、閉《た》て切ってあるここまで匂って来る。
「あなたさまは、今度のお仕事のプランをお立てになる前から、河はお好きでいらっしゃいましたの」
私はざっと考えて、「まずね」と答えた。
「それじゃ、今度、わたくしご案内いたしましょうか。東京の川なら少しは存じています」
そう云って、娘は河のことを語った。ここから近くにあって、外濠《そとぼり》から隅田川に通ずるものには、日本橋川、京橋川、汐留《しおどめ》川の三筋があり、日本橋川と京橋川を横に繋《つな》いでいるものに楓《かえで》川、亀島川、箱崎川があることから、京橋川と汐留川を繋いでいるものに、また、三十間堀川と築地川があることをすらすら語った。
私も、全然、知らないこともなかったが、こういう堀割にそう一々河名のついていることは、それ等の堀割を新しく見更《みあらた》めるような気がした。
「どうぞ、もっと教えて頂戴《ちょうだい》」と私は云った。
すると、娘ははじめて自分の知識が真味《しんみ》に私を悦《よろこ》ばせるらしいのに、張合いを感じたらしく、口を継いで語った。
「隅田川から芝浜へかけて昔から流れ込んでいた川は、こちらの西側ばかりを上流から申しますと、忍川、神田川、それから古川、これ三本だけでございました」
私は両国橋際で隅田川に入り、その小河口にあの瀟洒《しょうしゃ》とした柳橋の架っている神田川も知っていれば、あの渋谷から広尾を通って新開町の家並と欅《けやき》の茂みを流れに映し乍《なが》ら、芝浜で海に入る古川も知っている
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