の母親には、今まで決して見せなかった涙を、死の真近になった顔にぽろぽろと零《こぼ》して、「なるほど考えてみると、今までは私が悪かった。謝るから、どうかこのことだけは一つ自分の遺言だと思って、聴容《ききい》れて貰い度《た》い」と云って、次のことを申出た。つまり自分の生んだ女の子が育って、年頃になったなら、必ず木下と娶《めあ》わして欲しいというのであった。木下の母親もそれまでは断る元気もなく、しぶしぶ承知の旨を肯《うなず》いて見せた。すると堺屋の妻はまだ本当には安心し切らないような様子で半眼を開いて、じっと母と僕と娘の顔を見較《みくら》べながらやがて死んだ。木下の母親は堺屋の妻の死後までその時の様子を憎んでいた。
 娘は乳母を雇って育てられた。木下の母親は自然主婦のような位置に立って、家事を引受けていたが、不思議な事には喧嘩《けんか》相手の無くなったことに何となく力抜けのした具合いで床につき勝ちになり、それから四年目の木下が十三歳、娘が五つの年に腹膜炎で死んだ。
 そのとき木下の母親の遺言はこうであった。
「ここの家のお内儀さんとの約束だから、息子にお嬢さんを貰うことは承知するが、息子をこの家の養子にやることはどうしても否や。なにしろこの息子は木下家の一粒種なのだから……」
 母親はふだんから、世が世ならば、こんな素町人の家の娘をうちの息子になぞ権柄《けんぺい》ずくで貰わせられることなぞありはしない。資産から云ったって、木下家の郷里の持ものは、人に奪《と》られさえしなければ、こんな家とは格段の相違があるのだといっていた。
 娘は乳母に養われ父親だけで何も知らずに育ち、木下は店から通って、中学から高等学校に上って行った。
「嫌なものですよ。幼な心に染《し》み込んだ女同志の争いというものは、中に入っているのが子供で何も判るまいと思うだけに、女たちはあらゆる女の醜さをさらけ出して争います。それはずーっといつまでも人間の心に染みついて残ります。僕は堺屋のおふくろが臨終に最後の力を出して、僕を母親から奪おうとしたときの、死にもの狂いの力と、肉身を強味に冷やかに僕を死ぬ女の手から靠ぎ取った母親の様子を、今でもありありと思い泛《うか》べることが出来ます」
 それは嫌やだと同時に、またどうしても憎み切れないものがある。家というものを護《まも》らせられるように出来ている女の本能、老後の頼
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