まず》いた。そして歳子をも促してさうさせた。澄む水に二人の顔が写つた。暁《あかつき》まへの水の面は磨きたての銅鏡のやうにこつくり澱《よど》んで照度に厚味があつた。
 いつの時代、どこの人間とも判らない若い男女の顔が水底から浮び出た。
 しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。
「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」
 歳子は襟元《えりもと》へ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安も湧《わ》かなかつた。
 それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚《こうこつ》に浸《ひた》つてゐるやうな渺茫《びょうぼう》とした気持ちだつた。
 近くの森から飛び立つた小鳥が池の面を掠《かす》めて飛ぶと二人は同時に顔をあげた。
 月は西に白けて、大空は黎明《れいめい》の気を見せて来た。そこに天地が口を開けたやうな一種いふべからざる神厳と空虚の面貌《めんぼう》の寸時がある。
 歳子は殆《ほとん》ど一晩語りに語り続けた青年の矛盾《むじゅん》してゐるやうな、独断のやうな言葉を聞き明したが、決して退屈しなかつた。そして高踏極まる話をする青年の言葉の底に却《
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