かえ》つて切ない人間の至情を感じて、何か歎《なげ》かずにはゐられない気持ちになつた。歳子は哀れな優しい溜息《ためいき》をした。
「たうとうあなたに溜息をさせてしまひましたね。それは僕ばかりのせゐぢやないのです。月のせゐでもあり、夏の夜のせゐでもありますよ。夜気に湿つた草の匂ひのせゐでもありますよ。でもよく幾夜も僕の夢遊病症につき合つて下さいましたね。これが最後の夜と思へばお名残り惜しいけれど、もう夜もぢきあけます。僕たちはもうお別れしなくちや……。平凡で常識な昼日中がやつて来ます。僕たちが折角《せっかく》夜中《よるじゅう》かかつて摘み蒐《あつ》めた抒情の匂ひも高踏の花も散らされて仕舞《しま》ひます。」
 そして彼はさう云つたあとはむつつりと無言で、丈《たけ》の高い庭草を分けてのし/\と歩き出した。


 結婚の前夜、歳子は良人《おっと》に牧瀬の庭の夏の夜を話した。すると良人は例の思慮深さうに一考した後、眉《まゆ》を開いて云つた。
「美しい経験だ。『夏の夜の夢』と題して、あなたのメモリーに蔵《しま》つて置くといゝですね。そしてあなたのこころが結婚生活の常套《じょうとう》に退屈したとき、と
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