置いてあり、鞍にリボンなど着いて居るのを見ると、ひょっとしたらイベットの馬かも知れない。イベットがこの男にこんな役目を勤めさせるほど、何時の間に手馴着《てなず》けたものかも知れない、と小田島は直覚的に考えた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――お早う。これはマドモアゼル・イベットの馬じゃ無いですか。マドモアゼル・イベットは今、何処に居られますか。
[#ここで字下げ終わり]
 男は別に意外な顔もせず答えた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ほう、あなたはマドモアゼル・イベットを御存じですか。マドモアゼルは今、其処《そこ》の崖を降りてお寺へ行って居ます。坊さんに知り合いがあるので賽銭の上り高を聞くのだと仰《おっしゃ》ってでした。あの娘さんは実に熱心な社会学者ですな。
[#ここで字下げ終わり]
 彼も相槌《あいづち》を打つ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――そうですな。本当に熱心な社会学者ですな。
[#ここで字下げ終わり]
 同時にこの物知り顔の男に序《ついで》に探ぐって置くことがある。小田島は何気無い風を粧《よそお》って聞いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――市長マシップ氏にも用があるんですが、何処に居られますか。
――市長ですか、市長は今朝五時半まであの娘さんとスコットランドの金持ちミスター・ジョージと三人でルイジで小夜食を喰べ乍ら一緒に居ました。三人は今夜西班牙へ出掛けるつもりです。それで市長は用意の支度に家へ帰りました。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島は彼女に喰い尽された残骸としてのドーヴィルを眼の前に感じた。彼女はもう西班牙へ発つのか。ドーヴィルにはもう用は無いのか――小田島はしばらく呆然自分の靴を眺めて居ると男は今度はけげん相に訊く。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――貴方はマドモアゼルのお友達ですか。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島に突然、イベットを憎む衝動が起きた。イベットは、そんな緊急な事態の矢先きに何故自分をこんな処へ呼び寄せたんだ。彼は腹立ちまぎれに無茶が云い度かった。
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――これでも僕は彼女の恋人ですよ。
[#ここで字下げ終わり]
 すると男は、今までの柔和に似ず鋭い笑いを見せて云った。
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――あの娘と知り合いになる程の者はみんな恋人でしょうな。しかし本当の恋人になり得る者は誰でしょうな。私が二十年間、カジノの切符台から女を見た経験から云いますと、あの娘さんはまず見て味う女でしょうな。あまり深入りするとまあ身の破滅というたち[#「たち」に傍点]の女でしょうな。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島は何のことやら判らないで云った。
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――御忠告有難う。兎《と》も角《かく》、イベットに会って来ましょう。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島のイベットに対する怒りはもう消えて居た。彼はしみじみとした気持ちでイベットに逢うため崖に付いた一筋の道を寺の方へ降りて行った。

       七

 寺の役僧に礼を云ってイベットは小さい手帳を乗馬服の内隠しに仕舞った。それから役僧の姿が祭壇の横の扉に隠れたのを見届け小田島に近寄って来た。
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――よくお出掛けになってね。私も急にあなたにお目にかかり度い事情が出来たの。けど先刻ホテルに帰って聞いた時お部屋は閉ってあなたはまだ寝てらしった御様子よ。
[#ここで字下げ終わり]
 薄暗い祭壇の長い蝋燭《ろうそく》が百合《ゆり》の花の半面や聖母像の胸を照らして居てあとははっきり何も見えない。胴をちぎれる程締めたイベットの細身の乗馬服姿は修繕中の足場で妨げられたステンドグラスから僅な光で見出される。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――君は発つんですってね。
――まあ、何処から聞いて来て?……そうなの、急に、今朝がたそれが極《きま》ったような訳なの。
――何うしてそんなに急に極まったの。誰かが極めたの。君自身が?
――みんなが極めたんですわ、市長さん始めこのドーヴィルの人達が。
――今日の夕方発つんだってね。彼処《あそこ》で馬を番してるお喋舌《しゃべり》の男に聞いたんだ。
――ええ、あの男お喋舌だけど割合いに親切で正直者よ。――で私、急に今朝あなたにお目に掛ろうとしたの。それからモンブラン(白山という馬の名)にも乗り納めのお名残が惜しみ度かったのよ。
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は殆ど小田島に寄り添って来た。
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――そして、もう調べはついたの?
――ええ、大たい――
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は廻りを見廻して小さい声になり
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――そろそろ歩き乍ら話しましょう…………フランスの大蔵省が秘密にして居る賭博場からの揚り高の大体の見当がついたわ。もっとも数字は百以上ある賭博場《カジノ》の中の主な九つだけに就いて判っただけだけれど、それだけでも判ればあとの予想はつく訳よ。あなたそれは如何《どれ》位あると思って? 去年のたった九つだけの賭博場からの揚り高でも総額二億六千万フラン以上よ。
[#ここで字下げ終わり]
 二億六千万フラン! それを日本平価に換算すれば二千万円以上の見当だ。それが九つの賭博場《カジノ》からの揚り高とすれば百以上からの上り高は大したものだ。しかし、彼は今、そんなことに驚いてばかり居る余裕は無い。崖下の人通の無い場所を幸い彼はぐっと強い調子でイベットに迫った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――マドモアゼル・イベット! 君は折角《せっかく》探ったそういう秘密を、どうして僕にそう喋舌っちまうんだ。それから僕をこんな訳も判ら無い贅沢地へ連れ出してなぶるような目にばかり逢せて置いて何が面白いんだ。君が僕に要求するのは一体何だ。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島の言葉には来る早々からあんな女に纏《まつわ》られ通した憤懣《ふんまん》も彼の無意識の中に交って居る。と、イベットの体が少し慄《ふる》えて、その慄えの伝わる手が小田島の肩に掛った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――矢張り、あなたも、そう云う事をいう方だったの。
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は有《あり》たけの精力を瞳に集め、小田島の顔に見入り言葉を続けた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――東洋人も西洋人と同じ様に矢張り謎に堪えられ無いのでしょうか。
[#ここで字下げ終わり]
 近くでつくづく見るイベットの身体は、乗馬服の毛織地を通してもその胸と腰とのふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]に何処か「女」になり切れ無い小児性体質が感じられる。それがまた異様な魅力となって小田島の愛感を急き立てる。彼はぐっとイベットの手首と肩を押え、苦しそうな声を出した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――云って呉れ給え。もっと、はっきり云って呉れ給え。僕には君の云うことが、まだはっきり判らない。
――ムッシュウ・小田島! もう最後だから、何もかも私に云わして。
――最後って、此処で別れたからって何も君と僕とこれから逢えない訳は無いじゃ無いか。
――いいえ、最後よ。私、何も彼《か》もお話しすれば判りますわ…………さ、其処へ掛けましょう小田島。
[#ここで字下げ終わり]
 彼女は少し離れた崖際の木の下にあまり雨にも濡れずに置き捨てられた様な一つの古いベンチを見出した。二人は掛けた。四方は森閑として居る。折々遠方でポロ競技場の馬群に浴せる歓声が聞える。
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――私の性質に私の今までの仕事がぴったり合って居たと思って、小田島。私、仕事なんかに向く女じゃ無いのよ。今度の仕事なんかも私が腕がある女と見込んだのより却って私の子供っぽい性質が人に好かれたり人を油断させたりするのが、命令した人達の目の着け所だったのよ。
――それは僕にも判る。
――私のこの性質が私を或点まではどの仕事の時にも私を仕合《しあわせ》にしたり私に面白い目を見せて呉れたのよ。でも結局は仕事ですもの。仕事となれば何だって辛《つら》いのよ。だから、私の辛い時の愚痴や溜息や、私のたまに気がはずんで得意になってするお喋舌や、それから慰めが欲しくなってするいたずら[#「いたずら」に傍点]なんかを、黙って受けいれて呉れる人が欲しかったのよ。でなけれや、私の生きる根が無くなっちまうのよ。
――ふむ。
――でも欧洲人には誰一人そんなことに堪えて呉れる人は無かったのよ。欧洲人というものは理解無しには何事にも肩を入れて呉れない性質の人種よ。私のこんな妙な性質は説明したところでなかなか理解しては呉れ無いのよ。また説明して理解して貰っちまうと今度は私に対して父親や母親のような気構えになって、あんまり単純に甘やかし初めるのよ。贅沢を云う様だけど私の望んで居る「条件」を男としてかなえて呉れる魅力を無くして仕舞うのよ。私沢山の欧洲人に失望してあなたを見付けたのよ。
――うむ。だんだん君の話が判って来たよ、イベット。
――まあ聞いてて…………今まであなたは私のすることに無関心であるらしい程黙って私に何でも勝手を為《さ》せて呉れたわね。それで居て全然私に興味が無いという素振りでも無かったわね。あなたこそ私の妙な慾望に堪えて呉れるただ一人の男だと、私心の中で感謝して居たの。
――判った。イベット。よく判った。
――まあ聞いてて…………まったくあなたは今まで私の気儘な謎に何の説明も求めずつき合って下さったわね。私ね、それが東洋人のあなたの性質の特徴かと思って居たのよ。
――ちょっと待って、イベット。
[#ここで字下げ終わり]
 小田島は額の汗を急いで拭くとイベットの肩をしっかり掴んで揺ぶった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――悪かった。僕は矢張り君に対して今迄の僕で居ようね、イベット。
――ええ、有難う…………でもあなたの真当《ほんとう》の処が判って見れば…………それにもう何もかも最後のお別れだわ。
――済ま無い、悪かった。
――いいえ、私こそひと[#「ひと」に傍点]をそんな勝手な相手にして置こうなんて虫が好過ぎたのよ。私こそ済まなかったのよ。でも私、幾度も云うようだけど上べはこんな勝気で陽気な女だけど、どうかすると、まるで堅い人間の壁の様になる時があるのよ。そしてその中へ孤独の自分を閉じ込めて息を吐かせない時があるのよ。
――僕もそういう時の君によく出逢った。僕は陽気な君より、そういう時の冷たい君が好きだった。
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 小田島は、ごくりと一つ生唾《なまつば》を呑んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ねえ、イベット。国事探偵なんて君にはあんまり大役ですよ。君はもうそんな危険から抜け出してもっと気楽な身分になりなさい。君の為に遺産の遺言状まで書いて居るお爺さんさえ有る相じゃないか。早く巴里へ行ってそのお爺さんの養女にでもなって気楽な身分におなんなさい。
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 イベットがそっと眼に当てたハンカチが、涙を拭いて居るように小田島には見えた。
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――有難う。でも何もかももう晩いのよ。私はもうフランスには居られ無いの。国事女探としてフランスの黒表に載って仕舞ったのよ。私送還されるのよ、西班牙へ。そして国元の西班牙へ返されたところで私に探偵を命令した反プリモ党は何時天下を覆《くつが》えされるか判ら無いのよ。どっちみち、塀の前の楡《にれ》の木の下で私が銃殺の刑に会うことは知れ切ったことなのよ。
――イベット、それは本当か?
――ええ、本当ですとも。
[#ここで字下げ終わり]
 イベットは一寸あたりを見廻した。人は居なかった。が、イベッ
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