トが再びテーブルに眼を落し平気で勝負に身を入れ出すと、小田島を掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》るように急《せ》き立てて其所《そこ》を離れた。
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――あたし口惜《くや》しい。あたし、またあいつに負けちゃった。あの小娘なんて人の頭を抑える電気が強いんだろう。
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女は涙をぽろぽろ零《こぼ》し乍らやけに小田島を引張って場付きの酒場へ入って行った。また酒か。と小田島はくさくさした。そして自分に何の義務があって夕飯だの酒だのとこの女を世話しなければならないのかと小田島は馬鹿々々しくてならなくなった。が、流石《さすが》に少し女を憐れむ気持ちがイベットに離れて居る彼の孤独感に沁《し》みもした。で、仕方無しにまた彼は此処へも女について入った。
恐ろしく長い酒場の台。客は四五人しか居なかった。丁度《ちょうど》カクテール調合筒を振り終えた給仕長らしい男。
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――東洋人の奥さん、旦那にはもう翡翠《ひすい》の簪《かんざし》でもねだったかね。
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彼は、他の客とずっと離れた椅子へ掛けた二人に近寄り女に冗談を云った。
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――お黙り、フレデリー、生憎《あいにく》とこの人は支那人じゃ無いよ。
――ハアハア…………。
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男は曖昧《あいまい》な笑いを残して向うの客の方へ引返した。それを見送った女は今度は小田島の方を振り返って、涙の乾いたあとの妙に味気無い眼を瞬かせ乍ら
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――あんた、あのフレデリーね、フランスカクテール界のキングって云われる腕前なのよ。
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と小田島に教えて置いてまた向うへ
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――フレデリー、腕を振って調合したのを持って来て。
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横柄に誂を出した女はそれで落ち付くとまた愚痴に顔を歪め、イベットの事を云い出す。
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――あんた、イベットのあの大した服装を見た? ちょいと見は何でも無いようで、あのローズ・ド・ラジェフって色、今までフランスのどんな腕の宜い布地屋でも出せなかった色よ。それをあいつ、何時《いつ》の間にか着ちまってる、何という魔ものだ。
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女は口惜しがる度に小田島を強く小突く。彼は暴戻《ぼうれい》な肘《ひじ》で撃《うた》れる度に、何故かイベットの睫の煙る眼ざしを想出す。
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――あんた、後生だから、あの女にだけは惚れないでよ。他の女ならあたし、手伝っても仲をこしらえて上げるから。
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なお女の言うところに依るとイベットはまだ年の割に子供である。その癖甘い毒を持って居て彼女に係わる男を大抵麻痺状態に陥れる。男達も始は玩具のつもりで段々親身になり、何でも彼女の云いなりになる。彼女の我儘には困り切り乍ら結局それを悦《よろこ》ぶようになる。そういう男達は大方老人でなかに若い男があっても矢張り彼女を娘の様に可愛がり出す。女は知名の実業家、政治家をその男達のなかに数え、流石にしまいの声は落して、此処でもドーヴィル市長を始め賭博場の重《おも》な役員、世界の諸国から賭博に来た金持男達まで殆どイベットに籠絡《ろうらく》されて居る、と云う。小田島は聞いて居るうちにそれはイベットのあのあでやかな美貌と時には職業上の政略として用いる例の彼女の可愛いいふてぶてしい技巧で贏《か》ち得た男達であろうと思っては見たが、今の彼にとって余り宜い気持ちは仕無かった。
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――だから、あんた。あんな女にエトランジェのあんたが引かかっちゃいけ無い。私なら、その場限りの女で……
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女は一言も云い逆らわ無い小田島に喋舌《しゃべ》るだけ喋舌って気も晴れたし段々酔いも廻って来たので、今度は酒場に入って来る誰彼と無しに捕えては話し掛けた。
人々の話によると賭博台はいよいよ盛になり、スタンレー賭博団は千フランのテーブルに席を移し、「オープン・バンク」を開始した。この賭博法は千フラン以上どれ程巨額な相手にでも親になり賭を引受ける。この親は少なくとも百万フランはテーブルに置き、尚、二百万フランを控えに持って居る必要がある。昨夜から賭け続けて来た自動車王シトロエンがもう千万フラン近く持ち越したという話はコップを持つ人達の手を控えさせ息を引かせた。その時若い夫を連れて入って来たのは、小田島も幾度か巴里の劇場で見たことのあるフランスの名女優セシル・ソレルだ。六十に近い小皺《こじわ》を品格と雄弁で目立たなくし、三十代の夫と不釣合には見え無い。服装は今の身分伯爵夫人に相応《ふさわ》しい第二帝政時代風のローブ・ド・ステールで絵扇を持って居る。彼女はバアの隅の大テーブルに腰掛けようとして思いがけなく女性に辛辣《しんらつ》な諷刺文学者フェルナンド・ヴァンドレムが居たのを見ると調子よく
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――あたし達はあなたの材料になる為に席を茲《ここ》へ取ったようなものねほほ……。
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こんな風に場の空気が和《やわら》いで来たにも拘らず酔いにつれて小田島の連れの女は険悪になって行った。女は丁度其処へ来合わせた夜会服の柔和な老人を見ると急に軒昂として眉を釣上げ
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――へん、また一人イベットの御親類筋が来たな。
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女はその老人の白髭に握み掛ろうとした。
革命前のロシヤ皇室の探偵隊首領、現ドーヴィル詐欺賭博取締係長の老人はにこにこし乍らその手を捉え、身体を押えてずるずる女を高い椅子から引き降した。鄭寧《ていねい》な中に強い歯止めのかかって居る老人の取扱いに女は暴れても仕方が無かった。
小田島はいよいよ女から逃げ度くなった。隙をねらって急いで酒場の扉口を出ると女はあたふた追って来た。
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――あたしは、あんたを東洋迄も追馳けるよ。誰がイベットに渡すもんか。
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賭博場を取巻く角や菱形に区切られた花園は夜露に濡れ、窓から射す燈に照らされ、ゴムを塗った造花の様に煌《きら》ついて居る。その中を歩き乍らいくら小田島が振り除けても女は離れて行こうとし無い。果《はて》は芝生に大の字形に寝て仕舞い、片手を伸ばして彼のズボンの裾をしっかり握って離さない。彼の癇癪《かんしゃく》は遂々爆発した。彼は女を引起すのに残酷とは知り乍ら、多少心得のある柔道の手を用いた。すると女はけろりとして起き上り、今度は彼の肩へ吊り下った。
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――不思議、々々々。もっとやってよ。あたしこんな所痛むの始めて、好い気持ちよ。
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小田島はしんから困った。疲れて頭がぼんやりして来た。女は女で遂々酔いが極度に発し腕は小田島の腕へしっかりしがみ付き乍ら首を小田島の肩に載せ、こんこんと眠りに落ちて行こうとする。イベットにあわよくば会えようと思って出て来たことも忘れ、彼は前後の考えもなくなり、何もかも面倒になって女をノルマンジーホテルの自分の部屋へ連れ込んで寝かして仕舞った。
六
女は小田島の寝台へ投げ込まれ、前後不覚に眠込んで仕舞ったが、彼は女の傍で到底眠る気になれない。彼は長椅子を壁際に押して行き、毛布を掛けてその上へ横になると、疲れが直ぐに深い眠に彼を引き入れて行った。
小田島が長椅子の上から醒めたのは、朝も余程|長《た》けた頃だった。寝台の女はまだ前後不覚に寝こけて居る。その荒《すさ》んだ寝姿を見るにつけ、彼にはイベットの白磁のように冷い魅力が懐かしまれる。もしイベットに、この女のような無茶苦茶があったら自分のイベットに対する気持ちは、もうずっと前から世間普通の恋となって居たであろう。だがイベットが時々虚脱して単なる「物」になる不思議、あれは魅力としても殆ど超人間的なものだ。それとあの子供のように見せつけ度がる技巧癖、あれらは二人を恋にするにはあまりに白けさせる。で、結局彼は彼女に恋以外の何物とも知れぬ魅力で牽《ひ》きつけられて来たのだけれど……今度、彼女は何か覚悟する処でもあって、自分を此処へ呼び寄せたのではあるまいか、電報で呼ぶ位の突飛な仕業は、彼女として別に珍らしがる程のことでも無いが、思い做《な》しか昨日オンフルールで会った彼女は一層いつもより淋《さび》し気に見えた。何か最近、彼女に差し迫った変事でもありはしまいか――そんな予感が微《かす》かに起ると小田島は尚更じっとして居られなかった。
小田島は廊下へ抜け出し、イベットの泊って居る部屋附のボーイにいくらか金を握らせ、彼女の様子を聞いて見た。ボーイの答えによると彼女は今しがたカジノからホテルへ乗馬服と着替えに帰って来て、鞭《むち》を持って出て行った。十時には温浴とマッサージとマニキュアを命じてあるから帰って来るに違い無い。との事である。彼はその時間までは待ち遠い。それまでこのホテルの自分の部屋にあんな女の寝姿と一緒に居度くもない。彼はイベットが朝の乗馬に出たものと知って、乗馬道を尋ねて行き、彼女に逢おうという気になった。そのうちあの女も眼を醒まし、自分の居ないのが分ったら何処かへ出て行って仕舞うだろう――小田島はまたそっと部屋へ帰り、急いで平常着と着更えて足早に外へ出た。曇った空は霧のような雨を降らして蒸暑い。ユーゼーン・コルナッシュ通りの群集は並木の緑と一緒に磨硝子《すりガラス》のような気体のなかに収まって賑《にぎやか》な影をぼかして居る。乗馬時間で通るものは馬が多い。彼は一々馬に眼をつけたがイベットは見えない。殆ど前半身を宙に伸び上げ細い前足で空を蹴《けっ》て居る欧洲一の名馬、エピナールに乗り、その持主、パウル・ウエルトハイマーが通ると人々は息を止め、霧の中で盛な拍手が起った。
浜には今年流行の背中の下まで割れた海水着の娘や腰だけ覆《おお》って全裸の青年達が浪に抱きつき叩《たた》かれ倒され、遠くから見る西洋人の肌は剥《む》き立てのバナナのようにういういしい――小田島は突然顔を赫《あか》らめた。彼は矢張りイベットの肉体を結局は想い続けて居たのでは無いか――いつも自分の心理を突き詰めて行くのに卑怯で気弱な彼はまたしても首を強く左右へ振った。そして何かに逆らうような気勢でさっさと歩き出した。
遊覧客相手の贅沢品屋は防火扉をおろしてまだ深々と眠って居た。扉に白いチョークで、西班牙《スペイン》皇帝の似顔絵が拙《つたな》く楽書きされて居る。自国の乱れた政情の間を潜って、時々陛下は茲へ遊びに来られた。陛下の古典風な顔はフランスの何処にでも人気があった。衣裳屋のショーウインドウのマネキン人形はまだ消えない朝の電燈の下で今年の秋の流行はペルシャ野羊《やぎ》であることを使嗾《しそう》して居る。霧雨はいつの間にか晴れて、道は秋草の寝乱れて居る赫土の坂を上り、ポロ競技場が彼の眼の前に展開された。
イギリス、対アメリカのポロ最終競技が今日午後にある。アメリカ選手達の予備練習の馬群が浪の泡立つ様にさっと寄ってはさっと引返す間に、緑の縞《しま》や薄桃色のユニフォームが、ちらちらする。その馬群が投げられた球を追って道端の柵までどっと押し寄せる気配いを受けて、高く嘶《いなな》いてダクを踏んだ馬が一つ、小田島の行手の道の接骨木《にわとこ》の蔭に居る。彼が注意深く接骨木の根の叢《くさむら》を廻って行くと、その馬の轡《くつわ》を取って一人の男が呆然と停って居る。その男は、前夜小田島がカジノの切符台に納って居るのを見た勘定係の四十男だった。馬は華奢《きゃしゃ》な白馬で、女鞍が
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