二つ彼女の長い睫を軽く瞬《またた》かせる。
 この料理店自慢の鳥に詰物をした料理を給仕男が持って来たが、こういう卓上風景には馴れて居るので音を立てぬようにそっと行って仕舞った。
 子供が乳房を吸って仕舞ったあとのようなぽかんとした顔をして、イベットはやがて男の腕から顔を上げた。
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――あなた、カジノの賭博から、フランス政府はいくら取上げるのだと思って?
――知らないね。
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 小田島は経済学を専攻して居てもまだ賭博に就《つい》ての研究はしてなかった。
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――カジノでやる賭博で、「シュマン・ド・フェル(賭博の一種)」は五パーセント、カジノでテラ銭を取るのよ。その五パーセントの中からフランス政府は三パーセント取るのよ。それから「バカラ」では親元がはねる手数料三千フランずつに就て政府は六十五パーセントずつ取るのよ。一寸考えても御覧なさい。随分大きいでしょう。
――成程《なるほど》ね。大きいや。
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 小田島は驚いた。彼もフランスの財政が賭博税で補われて居る位はうすうす聴いて居た。しかし、それ程一々の賭博から多く取上げて行くことは知らなかった。フランス国内に勢力を持って居る多くの風教団体がフランスの不名誉として賭博税を、また人道の不名誉として賭博場の全廃を、あらゆる精力を費して叫んで来たが一向行われ無い。寧《むし》ろカジノは国内に増すばかりである。「世界大戦後の財政の立直るまで」と云い訳して来た財務当局の口実も意味をなさぬ今日に於《おい》ては、なおその正論を無視してやり続けて居るのも、これ程うまい利益が吸えるからだ。とイベットが少し興奮し乍ら話すのを小田島は熱心に聴いて居た。
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――で、一体フランス政府へは一年に何《ど》のくらい賭博から這入《はい》るのだろう。
――それが簡単に判る位だったら、わたしこんなに苦労はしなかったのよ。なかなか判らないからまたわたしの商売にもなるのよ。
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 小田島は彼女の顔をあらためて見た。彼が三年前彼女と巴里の共和祭の踊場で知り合って以来、彼女は随分職業を変えた。ジャン・パトウのマネキン娘。愛犬倶楽部の書記助手。土耳古《トルコ》の金持の妾《めかけ》、アメリカ世界観光船へ乗組の遊び女、これらの職業に携わって居る間に彼女は小田島に度々《たびたび》遇って、いくらも生活の愚痴や自慢話はするのだったが、職業それ自体に就ては何の感想も述べなかった。何れも運命の当然と諦めて居るらしかった。そしてハンドバッグにはいつもカスタネットを一組入れて居て、自分の職業が悲しくなるとそれを取出し、カラカラ指先で鳴らして気持ちの鬱屈を紛らして居た。今度の職業は、彼女にとって今までよりずっと重荷であるらしかった、で今までとは違いいくらかでも彼にこの職業の内情を割って見せる彼女が彼にはいじらしく見えた。

       四

 人を煽《おだ》てに乗せることをよくない趣味と心得て居乍ら、而《しか》も職業としては悪びれず、何処《どこ》迄もそれを最上の商法信条とする。これがフランス遊覧地気質だ。ドーヴィル、ノルマンジーホテルの食堂もその一つだ。ちょっと客を気易くさせる淡い影を壁の隅々に持たせ乍ら取付けた様な威厳、上ずった品位、慧眼《けいがん》のものが早くそれを見破ろうとする前に縦横からあらゆる角度の屈折光線がその作意をフォーカスする。で、客はただもう貴族趣味の夢遊病者となって、われ知らず飲み、喰い、踊る。客をそうして狂わせて置き乍ら、その狂う形骸に向って心からの親切、愛嬌、敬意を払って居るマネージャー始め食堂関係者等の慇懃《いんぎん》な態度――彼等のその態度にはまったく皮肉も狡さも無い。極めて従容とした自然な態度だ。如何《いか》にフランス人が客商売に適して居るかが分る。
 ダンス床を取捲いた二百五十組の食卓の一つへ小田島は仕方なしに四百九十三号室の女と席を取った。女は小田島がオンフルールでイベットに別れ、夕方帰って一休みして居ると、殆《ほとん》ど部屋へ暴《あば》れ込んで来た。女は少し酒に酔って居る癖に腹が空いて居ると云って、小田島の部屋を掻き廻し差し当り何か口に入れるものを探した。女はとうとう小田島の鞄《かばん》の蓋《ふた》をはね、中を引繰り返した。そして小田島が巴里を発つ前知人から贈られた缶入りのカキモチを見付けてカリカリ噛《か》み始めた。
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――米《リイ》のビスケット……………ふふふ……大変《トレー》、|旨い《ボン》。
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 彼女の行儀わるく踏みはだけた棒の様な両脚に、商売女の素気《そっけ》無さが露骨に現われて居たが、さすがに無雑作に物を喰べて口紅をよごさない用心が小田島に少し可哀相に思えた。カキモチも宜《よ》い加減喰べると
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――フランスの女はね。自殺する間際まで喰べものの事を考えて居るのよ。男には失恋しても喰物には絶対に失恋し度くないのよ。
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 女はこんな訳の分らぬことを云ってますます憐《あわれ》っぽくしおれかかる。
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――わたし今夜ご飯喰べられないのよ。あんた晩ご飯おごってよ。あたし払いが出来なくなって、おっ払われたんだから独じゃこのホテルの食堂へは入れないのよ。
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 小田島は絶体絶命という気がした。
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――じゃ、まあ、僕と一緒に来給え。
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 すると女は急にあたりまえだという顔をしてずんずん先に立って食堂へは入って来て仕舞ったのだ。
 女は座席に即《つ》くと悠々小田島のシガレットケースから煙草《たばこ》を抽《ひ》き出してふかし始めた。そして胡散臭《うさんくさ》そうに女を見乍ら誂《あつらえ》を聞く給仕男へ横柄に、
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――ちょいと。何かぱっと眼の覚めるようなものを持ってお出《い》で、コニャックでも。それから|鵞鳥の脂肪《フォア・ド・グラ》を少し余計持っといで。あたしちっと精力をつけなくっちゃ。
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 という調子だ。次々に女は勝手な料理を誂えて喰べながら、機嫌の好いままに、小田島に場内の説明をした。あのアメリカ人は傍のあの紳士を前|葡萄牙《ポルトガル》マヌエル陛下と知らずに、あんなあけすけな態度で女の話をしかけて居る。女を一人|宛《ずつ》相手に快活に喋舌《しゃべ》って居る二人の男は中央アメリカの高山へ望遠鏡を運んで天文学の生きた証拠を把《つか》んだベンアリ・マッツカフェーと弟のベンアリ・ハギンだ。二人とも有名なドーヴィル愛好者だ。カルタをして居るボニ侯爵は年の割に艶々《つやつや》して居る。容色の為午前二時より以上|夜更《よふか》しをせぬ真剣な洒落《しゃれ》ものだ相だ。前何々夫人が、これも新らしい妻を携えた前夫に自分の携えた新らしい夫を紹介して居る。今、椅子の背に頭をもたせ、肥った独逸《ドイツ》の腸詰王が鼾《いびき》をかき出した。などと忙しく説明し乍ら女は馴染みのタンゴ楽手のアルゼンチン人や友達の遊び女達の出入する度に挨拶の代りに舌を出したりした。
 ウイスキーをしたたか呑んで、だんだん酔の廻って来る女と一緒に人仲に居るのも気がさすので、小田島は部屋へ引取ろうとして立ち上ると女は急に彼を睨《にら》み上げた。
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――へん、イベットならオンフルールくんだりまで行った癖に…………。
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 女の言葉には妙に性根があった。
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――君は、どうしてそれを知ってるの。
――蛇の道ゃへび[#「へび」に傍点]さ、ふん。
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 女は横を向いてせせら笑ったが、今度は前より一層|酷《ひど》く小田島を睨み上げた。
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――わたしゃ、いつだってあのイベットに男を取られちまうんだよ。
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 女の睨みが緩《ゆる》んで来ると惨《みじめ》なベソの様な表情が現れて来た。小田島は前からイベットと知り合いだとこの女に云った処で仕方もなしきり[#「きり」に傍点]が無いので嫌がる女を引きたててホテルの玄関から夕暗のなかに出して遣《や》った。

       五

 午前一時過ぎのドーヴィル賭博場内だ。
 牛乳色に澱《よど》んだ室内の空気のなかで、深酷《しんこく》な血の吸い合いが初まっていた。
 煙草のけむりと、香水の匂いとで疲れて居る光の中に、賭博台が幾つも漂って居る。それにぎっしり人がたかって居る。難破したボートに人がたかって居るように見える。あまりに縁へのしかかり、沈んで仕舞った様にも見える人がある。
 二千フランのテーブルでは大賭博団スタンレー一派が戦を開いて居る。
 細くてキチンと服装を整えた男、背中を丸出しの女、二人とも揃って肥った体に宝石を鏤《ちりば》めて居る夫婦。
――あまり綺羅《きら》びやかに最上級に洒落て居るので却《かえ》って平凡に見える幾十組かが場の大部分を占めて居るので、慾一方にかかって居る樺《かば》色の老婆や、子供顔のうぶな青年が却って目立つ。そしてそれらの人体の間に閃めくカルタ札、カルタ札を掃く木沓《サボ》、白い手、紙幣、紙幣の代りに使う延べの銀板。――小田島は異様に緊張し、両手を堅く握り合せ、床に足首を立て重い靴の先で場内を見廻って居た。
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――そうら。遂々《とうとう》また見付けた!
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 四百九十三号室の女である。
 小田島は腹立たしくなった。この女は、まるで誰かに頼まれでも仕た様に、この土地へ来てから自分の行く先々に付いて廻る。実に面白くも無い邂《めぐ》り合《あわ》せだ。
 だが女は、小田島がそんな腹で居ようが居まいがという調子でぐんぐん男の腕を捲いて仕舞った。仕方がない! 酔って居ないのがまだしもだ、なまじい逆《さから》って喚《わめ》かれるより逆に利用して此処の説明でも聞く方が増しだと彼は腹を極《き》めて仕舞った。女はしかし、何か非常にこだわっで居るように興奮して居る。そして捲いた男の手を力強く曳いて暫く場内をあちこち歩いて居たがふと立ち止ると急いで腕を解き邪慳《じゃけん》に小田島の耳朶《みみたぶ》を引いた。
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――イベットが居る。あんた、イベットが見度くって来たんだろう。ちゃんと知ってる。
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 五百フランのテーブルにイベットが居た。「親元」に立って居る老紳士の真向いのテーブルに女王のような取り済し方で臨んで居る。彼女は顔に非常に似合う好い色の着物を着て居る。テーブルの組の人達もみんな彼女にその権威を許し彼女の機嫌に調子を合せて居るように見える。中でも彼女の隣の猪首で年盛りの男は卑屈なほど彼女の世話を焼いて居る。
 イベットも小田島の来たのを認めた。すると態《わざ》とらしく猪首の男の肩に凭れ、疲れを癒す真似《まね》をした。男は眼を無くしてイベットの手の指を接吻した。彼女はまたちらと小田島の方に眼を遣ったが連れの女には眼も呉れなかった。小田島は勿論、こんな女が自分の傍に居るのを知ってもイベットが何とも思わないことを知って居た、それよりもイベットの子供らしいとはいえ態《わざ》と自分にからかって他の男に巫山戯《ふざけ》る様子にいくらかの嫉妬を感じた。だがそれよりも尚《なお》彼は連れの女の不思議な様子に気を奪《と》られた。女はイベットから無視されたにも拘らず、イベットが此方《こちら》を向くとそそくさ目礼し愛想笑いをし、送りキッスまでした。而《しか》も顔は興奮に青ざめ、息使いまでがせわしい。女はイベッ
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