ドーヴィル物語
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)巴里《パリ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)前夜|晩《おそ》く
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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一
日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜|晩《おそ》く巴里《パリ》を発《た》ち、未明にドーヴィル、ノルマンジーホテルに着いた。此処《ここ》は巴里から自動車で二時間余で着く賭博中心の世界的遊楽地だ。
壮麗な石造りの間の処どころへ態《わざ》と田舎《いなか》風を取入れたホテルの玄関へ小田島が車を乗り付けた時、傍の道路の闇に小屋程の塊《かたまり》が、少し萌《きざ》して来た暁の光を受け止めて居るのが眼に入った。彼の疲れた体にその塊は、強く生物の気配《けは》いを感じさせた。よく観《み》るとそれは象であった。背中から四肢にかけ、縦横に布や刺繍《ししゅう》や金属で装ってあるらしい象の体は、丸く縛り竦《すく》められ、その前肢に背を凭《もた》せ、ダラリと下った鼻を腕で抱《だい》た一人の黒ン坊が眠って居るのもうすうす判る。まだホテルの羽目にも外に三四人の黒ン坊が、凭れて眠って居る様子だ。
小田島は近頃、巴里で読んだ巴里画報の記事を思い出した。カプユルタンのマハラニがドーヴィル大懸賞の競馬見物に乗って出る為《ため》、わざわざ国元|印度《インド》から白象を取寄せたということ。また小さい美しい巴里女優ラ・カバネルが四人の黒ン坊の子供に担がせた近東風の輿《こし》に乗って出るということ。その伊達競《だてくら》べに使われた可憐な役者達が、勤めを果して此処《ここ》に眠って居ることが彼に解った。
暁の空に負けて赤黄いろく萎《しな》びかけたシャンデリヤの下で小田島が帳場の男に、イベットが確《たしか》に泊って居るかどうかを尋ね合せて居ると、二三組の男女が玄関から入って来た。男はタキシード、女は大概ガウンを羽織り、伯爵夫妻とでもいうような寛《ゆるやか》な足取りで通って行く。次に誰の眼にも莫連女《コケット》と知れる剥《む》き出しの胸や腕に宝石の斑張りをした女が通った。何《いず》れドーヴィルストックの名花の一人であろう凄《すご》い美人だ。彼女の眼は硝子《ガラス》張りのようにただ張って居る。瞳を一ミリと動かさずに通りすがりの男の消費価値を値踏みするこの種の女の何れもが持ち合して居る眼だ。
小さい靴の踵《かかと》で馳ける音、それに引ずられて馳ける男の靴の音がして一組の男女がまた玄関から入って来た。小田島は「やあ」と日本語で云って仕舞った――イベットの服装は襞《ひだ》がゴシック風に重たく括《くび》れ、ラップの金銀の箔《はく》が警蹕《けいひつ》の音をたてて居る。その下から夜会服の銀一色が、裳《も》を細く曳いて居る。若《も》し手にして居る羽扇が無かったら、武装して居る天使の図そっくりだ。彼女の面長で下ぶくれの子供顔は、むしろ服装に負けて居る。連《つれ》の男は年老《としと》った美男だ。薄い皮膚の下に複雑な神経を包んで居るようで、何事も優雅で自分へ有利に料理する老獪《ろうかい》さを眼の底に覗かして居る。その眼は大きいが柔い疲れが下瞼の飾のような影になって居る。この老美男を組んだ腕でぐんぐん引立てて来たイベットは、咄嗟《とっさ》に小田島を見たが、すぐ、知らん顔をした。そして五六歩あるき階段へ廻る廊下の角の林檎《りんご》の鉢植の傍まで行くと、老紳士と組んだ腕を解き、右の片手を鉢の縁にかけ、夜会服の裾《すそ》を膝まで捲《めく》る。心得のある老紳士はそっと彼女に背を向け中庭の薄明が室内の電燈と中和する水色の窓硝子に疲れた眼を休ませる。客商売である帳場の者はもちろんこういう時の心得は知って居てそっぽを向く。(小田島ばかりはこういう時の礼儀を知らぬ東洋人であると、しらばくれて居られる特権がある。)彼女が捲った膝の縊《くび》れが沓下《くつした》の端を風鈴草の花のように反《そ》り返らせ、露《あらわ》になった彼女の象牙色の肉が盛り上る其処《そこ》には可愛らしいジャンダークの楯《たて》が刺青《いれずみ》してある。フランス乙女|倶楽部《クラブ》の会員章だ。実はこの刺青を小田島に見せるために、彼女は人前で靴下止めを直す振りをしたのだ。小田島とランデヴウを約束しようとして他人と一緒の時には、いつも彼女はこの可愛らしいふてぶてしい仕草で合図をする。
彼女は小田島が彼女の様子を見届けたのを知ると裳を元通り降して立ち上り、老紳士に云った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――今日のお昼は小海老《こえび》を喰べに行きますの、オンフルールの、サン・シメオンへ。
――承知しました、マドモアゼル。
――あら、あたし独《ひとり》でですわ。
――妙ですね。浮気?
――いいえ、たった一人でセーヌ河口が見度《みた》いのですわ。
――ホホウ、ヒステリーの起った風景画家というところですな。では晩まで遠慮しましょう。
――その代り、晩は十時にシロで晩御飯。それから賭博場《カジノ》のバカラへ行きましょう。
[#ここで字下げ終わり]
イベットは老紳士との会話で小田島に知らせるランデヴウの場所(サン・シメオン)を聞かせた。小田島は二人が二階へ昇って仕舞ってから帳場係に聞いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あの紳士は誰だい。
――ドーヴィル市長、ムッシュウ・マシップ(仮名)です。
[#ここで字下げ終わり]
小田島はいつぞや巴里で彼女がほのめかした通り、イベットは本当にスペイン国事探偵として、このドーヴィルに喰い込んで居るのかと、内心驚いた。
二
太陽が鮮《あざやか》に初秋の朝を燦《きらめ》かし始めた。ドーヴィル市の屋根が並べた赤、緑、灰色の鱗《うろこ》を動かして来た。その中に突立つ破風《はふ》造りの劇場、寺の尖塔(上べは綺麗ずくめで実は罪悪ばかりの素材で作り上げたこの市に寺のあるのが彼には一寸《ちょっと》おかしかった。)果樹園に取巻かれて、土の赤肌をポカンと開けて居るポロ競技場もかすかに見える。眼の前の建築群と建築群との狭い間から斜の光線に掬《すく》い上げられ花園のスカートを着けた賭博場の白い建物や、大西洋の水面の切端の遠望が、小田島の向うホテル五階の窓框《まどわく》の高さに止る。プラタナスの並樹で縁取った海岸の散歩道には、もう蟻《あり》ほどの大きさに朝の乗馬連が往き来している。その中に人を小馬鹿にした様にカプユルタンの王様が女と一緒に象に乗って居るのが大粒に見える。
疲れが深い眠《ねむり》を引き、先刻ひと寝入りで寝足りた小田島は再びベッドに横になっても眠くはなかった。で、巴里から持って来た社交界雑誌ブウルヴァルジエを展《ひろ》げた。彼は今までこの雑誌を見たこともなかったが巴里の社交界が移動して来た今日のドーヴィルは、この雑誌で研究するに限ると思ったので買って来た。ページを繰ると先《ま》ず仏蘭西《フランス》の自動車王シトロエンが、この地へ大賭博に来て居ること。フランス華族社会切っての伊達者《だてもの》ボニ侯爵がアメリカの金持寡婦の依頼で、この土地で欧洲名門救済協会の組織を協議したこと等の記事が眼につく――だしぬけに部屋の扉が開いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――御免なさい。あたし、お部屋を間違えたのよ。
[#ここで字下げ終わり]
薔薇《ばら》色に黄の光沢が滑る部屋着の女が入って来た扉口を素早く締め彼に近づき乍《なが》ら早口に云う。
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――あたし、東洋の方、大変、好き。この儘《まま》ここに居さしてね。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は急いでベッドから半身起し、手を振って云った。
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――駄目ですよ。僕は真面目な旅行者ですよ。
[#ここで字下げ終わり]
女は、案外思い切りよくまた扉口へ戻って、云った。
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――あんた、もし相手が欲しかったら、四百九十三号室に居るわたしを呼んでね。あたし本当はあなた方の相手するような廉《やす》い女じゃ無いんだけど、すっかりこれでしょう。
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女は何の飾も無くなった素の手首を見せて
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――だからあんたから阿片《アヘン》でも貰《もら》って、やけに呑んで見ようと思って。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は苦笑し乍ら云った。
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――生憎《あいにく》と僕は支那人じゃ無いのです。
[#ここで字下げ終わり]
だが、女はまだ疑って居るようだ。
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――この土地にはね、死ぬ処を、アッシュや阿片で止めた女が沢山居るのよ。
[#ここで字下げ終わり]
三
太陽、大河口。かもめ――ドーヴィルから適当な距離のオンフルール海岸は、ドーヴィル賭博人の敗北の深傷《ふかで》や遊楽者達の激しい日夜の享楽から受ける炎症を癒《いや》しに行く静涼な土地だ。
レストラン、サン・シメオンの野天のテーブルで小海老を小田島に剥《は》がさせ乍ら、イベットは長い睫《まつげ》を昼の光線に煙らせて、セーヌの河口を眺めて居る。彼女が斯《こ》うしてじっとして居る時は、物を眺めて居るのか、何か考えて居るのか小田島には判らない。だがまた斯うして居る時程この娘は美しく見える。イベットはもともと南欧ラテン民族の抜ける様な白い額《ひたい》から頬へかけうっすり素焼の赭土《あかつち》色を帯びた下ぶくれの瓜実顔《うりざねがお》を持つ女なのだが彼女が斯うした無心の態度に入る時には、何とも形容し難い「物」になって仕舞い、自然が与えた美しさだけが、外貌に残る。少し眼尻が下り、媚《こ》びて居るのか嘲《あざけ》って居るのか愁《うれ》えて居るのか判らない大きな眼、丸味を帯びて小さい権威を揮《ふる》って居る鼻、括《くび》れた余りが綻《ほころ》びかけて居る唇。これらがその形のままで空虚になるのだ。そしてこの娘のこの虚脱には何という人を逃さぬ魅力があることだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あなた、突然の電報で驚いた?
――別に驚きもし無いがね。だが一たい僕をこんな贅沢《ぜいたく》な処へ呼んで、どうしようって云うんだい。
[#ここで字下げ終わり]
彼女は「物」からただの女になりふふんと小狡《こずる》く笑った。それから小海老を手握《てづか》みで喰べて先が独活《うど》の芽のように円くしなう指先をナプキンで拭いた。
まともに押しても決して彼女が素直な返事をしないことを小田島は知り切って居た。と云ってカマをかけて訊《き》くようなえごいことは仕度《した》く無い女だ。小田島は思い切って聞いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――君はこの土地へ、探偵に来たのだろう。
――ふふん、それが何《ど》う仕《し》たというの。
[#ここで字下げ終わり]
イベットは少しぎょっとしたが、子供らしくとぼけ、胸を反らして小田島に逆らう様な恰好《かっこう》をした――その時、太陽が直射した。そして額や頬に初秋の海風が一しきり流れると彼女は急に崩折れた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――腕を借してよ、小田島。私に縋《すが》らしてよ、こんな商売、私、随分、寂しいのよ。
[#ここで字下げ終わり]
イベットは両手で小田島の腕を握り、毛織物を通して感じられる日本人独特の筋肉が円く盛上った上膊に顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を宛《あて》がった。そして何か強い精気あるものに溶け込み度い思いで一ぱいになって居るように彼女は静に眼を半分閉じるのだった。かもめの落す影が
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