トは前屈《まえかが》みになり、小声をぐっと小田島へ寄せた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――スペインの前の執権、プリモ・ド・リヴェラは、正義振って遊楽地の賭博を禁止したのよ。で、政府に収入がなくなったばかりで無く、遊楽地という遊楽地は火の消えた様に寂《さび》れる仕末…………ここから海岸伝いで国境を越えたサン・セバスチアンが宜い例ですよ。何年かあの港は賑な遊び場だったのに、禁止後|忽《たちま》ちスペインのなかでも極《ごく》平凡な工業港に変っちまいました。それで今度の政府は大々的に賭博の復興をもくろんだの。私の秘密な任務は、その復興策の参考の為に、フランス遊楽地の繁栄策を探ることだったの。そしてまあ、私のやれる迄はやったのですけど第一番に賭博場《カジノ》の探偵長ボリス・ナーデルの眼についたらしいのよ。
――ふうむ。それで君、何うしても今夜スペインへ送還されるの。
――ええ、どうしてもよ。そして帰った処で今も云った様に政変は明日起るかも知れないスペインなんです。私はあなたにいま一生の最後のさよなら[#「さよなら」に傍点]を云って置くのが利口だと思うのよ。
[#ここで字下げ終わり]
彼女はしげしげ小田島の顔を見乍ら手を差し出した。彼もその手を握り返したが、力は無かった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――仕方が無いなあ、それが君の運命なら。
[#ここで字下げ終わり]
イベットは顔の緊張を解いてベンチから立ち上った。そして乗馬服の胴を撫で、スカートを軽く二つ三つ叩くと俯向き加減に歩き出した。が、ベンチから未だ腰を揚げ得ないで思案に暮れて居る小田島を再び振り返ったイベットは、もういつもの快活なイベットの張のある顔に返って居た。そしてその顔へ少しの媚《こび》さえ湛《たた》えて小田島の側へ戻り肩越しに彼の顔を覗き込んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ムッシュウ・小田島! あなた私に、何か欲しいものは無い?
[#ここで字下げ終わり]
彼はだしぬけに云われて狼狽《うろた》えた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ほ、ほ、ほ、ほ、判らない? ムッシュウ・小田島。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は手足まで赫くした。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――……………………。
――私、どうしても嫌いな男や、私に何も呉れ無かった男にはいくら最後でも何にも遣る気はしないけど、あなたは可成《かなり》、私の望みにかなって下さったわね。ムッシュウ・小田島。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は更に赫くなった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――私あなたにお礼をするわ。今日十時半から十二時までの間…………私あなたのお部屋へ訪ねて行くわ、ね、よくって? 小田島。
[#ここで字下げ終わり]
八
突然、イベットに永訣しなければならなくなった世にも憐れな落胆者小田島は、また同時に世にも羞《はずか》しい果報者となってホテルへ帰った。イベットが訪ねて来る十時半にはもう一時間とは無い。
小田島がホテルの自分の部屋の扉を開けると、今まで意識から抜け切って居た女がまだ部屋に居た。女は浴室《バス》から上ったらしい丈夫相な半裸体のまま朝の食事を摂《と》って居た。車付きの銀テーブルの上にキャビアの鑵《かん》が粉氷の山に包まれて居る。それから呑みさしの白|葡萄《ぶどう》のグラス――小田島は呆気に取られてその傍へ突立った。
女は彼を見ると、それでも沓下だけは大急ぎで穿《は》いた。そして彼の体を全く馴染みの男の様に抱えてテーブルの前の椅子に坐らせた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あんた帰って来ないもんだから、一人で朝飯始めたのよ。まあ朝の御挨拶をしましょうね。ボン・ジュール・モン・プチ。
[#ここで字下げ終わり]
そしてナプキンを彼の胸に挟んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ところであんた、何を喰べるの。散歩したんでお腹が空いたでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
彼には今、怒る勇気も抵抗する気力も無いのだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――僕はこれが好い。
[#ここで字下げ終わり]
小田島はグラスに酒をついで呑んだ。一杯では胸の渇きは納まらない。
黒パンにチーズを塗り乍ら、じっと彼が酒を※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《あお》るのを眺めて居た女は、此種の女の敏感に伴う微な身慄いを身体中に走らせたが、最後に歪めた眼をだらしなく緩めると力の抜けた様にパンもナイフもテーブルへ抛げ出して云った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――やっぱりそうだ。この人はイベットに逢って来たんだ。
[#ここで字下げ終わり]
小田島はすこしてれ[#「てれ」に傍点]た様子で手を止めず、ぐいぐいグラスを呑み干すので、女はいくらか気を呑まれて呆然と見て居た。が、やがて椅子を離れてしょんぼり着物を着初めた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――まあ宜いだろう。折角喰べかけたご飯だけでも喰べてからにしたら。
[#ここで字下げ終わり]
斯う云う小田島に女は何の返事もし無いで、すっかり着物を着てしまい、髪も手早く直した。そして小田島の傍に来て手を差し出した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――如何《どう》したと云うんだい。あんまりおとなしくなり過ぎたじゃ無いか。
――すっかり判ってるのよ。イベットが追付けこの部屋へ来るんでしょ。そしてこの部屋の女王になるんでしょう。その時まであたしがこの部屋に残っていたら、あたしあいつにどんな憎しみを持って居ても、腰元の様に愛想よく使われなけりゃならないから。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は少し驚いた。イベットがこの部屋へ来ることをこの女がどうして知って居るのだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あたしを追い出すのは、いつもあの花よ。
[#ここで字下げ終わり]
女は鏡の前の花瓶のゼラニュウムの花を指して斯う云った。この花は、いつもこの女に邂り合せの悪い花であった。この花は、いつもイベットが男に最後のものを許す時、その部屋に飾る花である。この女が持とうとするほどの男が、いつもイベットに行って仕舞う。時々この女からイベットの持とうとする男に魁《さきがけ》をしようとしたが、いつも負けた。イベットが故意に負かそうとするので無くても、イベットの変な魅力がこの女を負かす。この女がゼラニュウムの花に持つ恐怖は本能的なものになった。この女はもとイベットと一緒にジャン・パトウの店の姉妹マネキンであった。一緒に乙女倶楽部の会員でもあった――不思議な女同志の運命のかち合せだ。女は今しがた湯から出て鏡の前にゼラニュウムの花を見た。女はまたかと思ってはっとした。が、或いは偶然でもあるかと思い返した。季節の燃えるようなこの花をホテルの部屋係が使うのは当然でもある。女は成可《なるべ》くそうだと思い度いので持って来たボーイに追求もしなかった。だがいまの小田島の態度が、これが偶然のゼラニュウムの花で無く、イベットがこの部屋へボーイに持たしてよこしたものであることを証明した。あたしは出て行く。でもこれきりであたしはイベットから引込みは仕無い。あたしは死ぬまであいつに張り合う――女の声は低いが喚いたり愚痴に落ちたり止め度も無い。
小田島は耳ではかなり沁々《しみじみ》女の言葉を聞き乍ら眼の前に燃えるゼラニュウムの花に今さら胸深く羞恥の情を掻き立てられ、それにイベットとの別離の悲しみも心に強く交り合った。
時計が十時を打った。すると女は突然あらあらしく扉口の方へ出て行った。小田島は少し狼狽《うろた》えて不用意に云って仕舞った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――イベットは今夜ここを発ってスペインへ帰るのだよ。もう永久にフランスへ帰って来ないんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
振り返った女は顎を突き出し、当の相手が小田島ででもあるかのように云う。
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――じゃ、あたしもスペインへ行く。あっちの男をイベットと張り合ってやる!
[#ここで字下げ終わり]
九
初秋の午前の陽が、窓から萌黄《もえぎ》色に射し込み、鏡の前にゼラニュウムの花が赤い唇を湿らして居る夢のような部屋。
イベットは男に口をきくのを許さなかった。
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――いま二人は「物」よ。ただそれだけ。「物」が最上の価値を出している。ただそれだけ。
[#ここで字下げ終わり]
たとえそれだけにしろ、たとえ礼心だけにしろ、イベットが今の小田島に対して、男に対する女になることを努めて居るのが、小田島にはいじらしくて仕様が無かった。
小田島はしきりに溜息をした。そして一言でも云い掛けると、唄でイベットはまぎらした。
小田島はいつの間にか、眠って仕舞った。
一時間半は過ぎた。何かに自分を根こそぎ持って行かれるような気持ちを、夢うつつの間に覚え、はっとして彼が半身を起すと、もうイベットは彼の傍には居無かった。
イベットが出発する夜の時間に小田島はホテルの玄関に停って居た。
迎えの自動車が来た。しかし、それには市長も金持ちも乗って居なかった。その代り探偵長ボリス・ナーデルが旅行服で乗って居た。多勢のホテルの使用人達に付き添われて出て来たイベットは落付いた色の軽快な服装の為に寂しい威厳まで加わった。其《そ》の立ち優《まさ》った美貌の前にボリスは三つの花束を差出した。
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――マドモアゼル。お気の毒ですが市長マシップ氏も、ミスター・ジョージも西班牙《スペイン》へ御同行出来ません。その代り私が国境までお見送りする。この花は市長マシップ氏と、ミスター・ジョージとの贈物です。お二人とも宜しくと云われました。それからも一つの花束は当ドーヴィル警察署からの贈物です。
――警察?
[#ここで字下げ終わり]
流石にイベットは顔色を変えた。しかし、直ぐ態度を取り直した。
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――判りました。皆さまの御厚意に厚く御礼申上げます。
[#ここで字下げ終わり]
彼女は車にゆったり乗った。探偵長を横に坐らせて彼女は平常よりも権威のある胸の張り方をした。小田島の挨拶にはもう通り一遍の目礼だけしかしなかった。
車が動き出そうとする時、賭博場の切符台の男があたふた駆けつけて来た。男はボンボン菓子をイベットに差出した。
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――御機嫌宜う、マドモアゼル。何卒《なにとぞ》、途中お体をお大切に。
[#ここで字下げ終わり]
これに対してもイベットは形式だけの答礼をした。
この時また、転ぶ様に馳けつけて来た女、この二日間小田島に纏り続け、彼の前でイベットを目の敵《かたき》に罵《ののし》り通して居たあの女だ。女は余程あわてふためいて馳け出したらしく、揉《も》み苦茶に着物を着て人目も恥じず車の中に上半身をのめり込ませ、イベットに縋り付いた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――イベット、あんた本当に西班牙に帰されるの。じゃ、あたしも帰る。イベット。あんたが居ないんじゃあたし一人此処に居たって詰《つま》んない。私も連れて帰ってお呉れね。イベット。
[#ここで字下げ終わり]
するとイベットの代りに探偵長ボリス・ナーデルが少し厳格な調子で云った。
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――そうは行かない。イベットの車は特別仕立てなのだ。
[#ここで字下げ終わり]
女はいつもの阿婆摺《あばず》れた様子は少しも見せず、一瞬間|萎《しお》れて呆然と車内の二人を見較べて居たが、今度は前よりも一層憐っぽくイベットに縋って云った。
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