ち優《まさ》った美貌の前にボリスは三つの花束を差出した。
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――マドモアゼル。お気の毒ですが市長マシップ氏も、ミスター・ジョージも西班牙《スペイン》へ御同行出来ません。その代り私が国境までお見送りする。この花は市長マシップ氏と、ミスター・ジョージとの贈物です。お二人とも宜しくと云われました。それからも一つの花束は当ドーヴィル警察署からの贈物です。
――警察?
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流石にイベットは顔色を変えた。しかし、直ぐ態度を取り直した。
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――判りました。皆さまの御厚意に厚く御礼申上げます。
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彼女は車にゆったり乗った。探偵長を横に坐らせて彼女は平常よりも権威のある胸の張り方をした。小田島の挨拶にはもう通り一遍の目礼だけしかしなかった。
車が動き出そうとする時、賭博場の切符台の男があたふた駆けつけて来た。男はボンボン菓子をイベットに差出した。
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――御機嫌宜う、マドモアゼル。何卒《なにとぞ》、途中お体をお大切に。
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これに対してもイベットは形式だけの答礼をした。
この時また、転ぶ様に馳けつけて来た女、この二日間小田島に纏り続け、彼の前でイベットを目の敵《かたき》に罵《ののし》り通して居たあの女だ。女は余程あわてふためいて馳け出したらしく、揉《も》み苦茶に着物を着て人目も恥じず車の中に上半身をのめり込ませ、イベットに縋り付いた。
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――イベット、あんた本当に西班牙に帰されるの。じゃ、あたしも帰る。イベット。あんたが居ないんじゃあたし一人此処に居たって詰《つま》んない。私も連れて帰ってお呉れね。イベット。
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するとイベットの代りに探偵長ボリス・ナーデルが少し厳格な調子で云った。
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――そうは行かない。イベットの車は特別仕立てなのだ。
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女はいつもの阿婆摺《あばず》れた様子は少しも見せず、一瞬間|萎《しお》れて呆然と車内の二人を見較べて居たが、今度は前よりも一層憐っぽくイベットに縋って云った。
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――では私、汽車で帰る……だけど私今、お金ちっとも持たないの。イベット、済まないけど今居る安宿の諸払いとマドリッドまでの汽車賃とそれから当座のお小使だけあたしに呉れない。
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イベットは何にも云わない。殆ど女の方を振り向いて見無かったが、女の言葉が終ると黙って頷《うな》ずいて手鞄を開け、金貨や紙幣を交ぜて女に渡した。女は指に白手袋の吸い付いて居るイベットの手を把《と》り押戴《おしいただ》く様に喜んだ。
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――有難うよ、イベット。じゃ、あたし仕度出来次第に早く此処を発つ。ね、マドリッドで逢いましょうよ。ね屹度《きっと》。またあたし、あんたの旧の家へ直ぐ訪ねるわ、ね。
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女は一人で承知してまた馳けるように帰って行った。勿論、あれ程つき纏った小田島が直ぐ眼の前に居ようが女は一瞥《いちべつ》もしなかった。
車を見送ったホテルの使用人達は皆引込んで行った。が、小田島はまだ大円柱の蔭に停んでイベットが残して行った轍《わだち》の跡を明るい軒燈の光で眺めて居た。と、まだ其処に一人の男が居て小田島の傍へ寄って来た。男は賭博場《カジノ》の切符台の四十男だ。
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――可哀相ですね、イベットは。とうとう国事探偵の嫌疑で国境まで追放です。
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小田島は何か相槌を打とうとした声が咽喉へ詰った。
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――惜しい娘だがこれ以上、ドーヴィルへあの娘を置くことは出来ません。あの可愛い利口な娘にかかっては、フランスが盗まれてなら無いものまで根こそぎ盗まれて仕舞いますからな。
――あなたはあの娘が、何か盗んだことでも知って居るんですか。
――は、は、は…………あまい恋人だね、あなたはフランス人というものをよく御存じ無いんですね。殊にこのドーヴィルの人間をね。市長始めわたし達はとうからあの娘が探偵だって事はよく知ってましたよ。
――それでよく今日まで、あの娘を此処へ置きましたね。
――しかし、直ぐ追い出しちまうにはあんまり可愛ゆい娘でしたからな。妙に魅力のある娘でしたからな。それであんまり害になら無いところまで此処に置いてやりました。ドーヴィルの花園の装飾にはいろいろ翼の模様の変った胡蝶が必要ですからな。
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