。
[#ここで字下げ終わり]
小田島はすこしてれ[#「てれ」に傍点]た様子で手を止めず、ぐいぐいグラスを呑み干すので、女はいくらか気を呑まれて呆然と見て居た。が、やがて椅子を離れてしょんぼり着物を着初めた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――まあ宜いだろう。折角喰べかけたご飯だけでも喰べてからにしたら。
[#ここで字下げ終わり]
斯う云う小田島に女は何の返事もし無いで、すっかり着物を着てしまい、髪も手早く直した。そして小田島の傍に来て手を差し出した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――如何《どう》したと云うんだい。あんまりおとなしくなり過ぎたじゃ無いか。
――すっかり判ってるのよ。イベットが追付けこの部屋へ来るんでしょ。そしてこの部屋の女王になるんでしょう。その時まであたしがこの部屋に残っていたら、あたしあいつにどんな憎しみを持って居ても、腰元の様に愛想よく使われなけりゃならないから。
[#ここで字下げ終わり]
小田島は少し驚いた。イベットがこの部屋へ来ることをこの女がどうして知って居るのだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あたしを追い出すのは、いつもあの花よ。
[#ここで字下げ終わり]
女は鏡の前の花瓶のゼラニュウムの花を指して斯う云った。この花は、いつもこの女に邂り合せの悪い花であった。この花は、いつもイベットが男に最後のものを許す時、その部屋に飾る花である。この女が持とうとするほどの男が、いつもイベットに行って仕舞う。時々この女からイベットの持とうとする男に魁《さきがけ》をしようとしたが、いつも負けた。イベットが故意に負かそうとするので無くても、イベットの変な魅力がこの女を負かす。この女がゼラニュウムの花に持つ恐怖は本能的なものになった。この女はもとイベットと一緒にジャン・パトウの店の姉妹マネキンであった。一緒に乙女倶楽部の会員でもあった――不思議な女同志の運命のかち合せだ。女は今しがた湯から出て鏡の前にゼラニュウムの花を見た。女はまたかと思ってはっとした。が、或いは偶然でもあるかと思い返した。季節の燃えるようなこの花をホテルの部屋係が使うのは当然でもある。女は成可《なるべ》くそうだと思い度いので持って来たボーイに追求もしなかった。だがいまの小田島の態度が、これが偶然のゼラニュウムの花で無く、イベットがこの部屋へボーイに持たしてよこしたものであることを証明した。あたしは出て行く。でもこれきりであたしはイベットから引込みは仕無い。あたしは死ぬまであいつに張り合う――女の声は低いが喚いたり愚痴に落ちたり止め度も無い。
小田島は耳ではかなり沁々《しみじみ》女の言葉を聞き乍ら眼の前に燃えるゼラニュウムの花に今さら胸深く羞恥の情を掻き立てられ、それにイベットとの別離の悲しみも心に強く交り合った。
時計が十時を打った。すると女は突然あらあらしく扉口の方へ出て行った。小田島は少し狼狽《うろた》えて不用意に云って仕舞った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――イベットは今夜ここを発ってスペインへ帰るのだよ。もう永久にフランスへ帰って来ないんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
振り返った女は顎を突き出し、当の相手が小田島ででもあるかのように云う。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――じゃ、あたしもスペインへ行く。あっちの男をイベットと張り合ってやる!
[#ここで字下げ終わり]
九
初秋の午前の陽が、窓から萌黄《もえぎ》色に射し込み、鏡の前にゼラニュウムの花が赤い唇を湿らして居る夢のような部屋。
イベットは男に口をきくのを許さなかった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――いま二人は「物」よ。ただそれだけ。「物」が最上の価値を出している。ただそれだけ。
[#ここで字下げ終わり]
たとえそれだけにしろ、たとえ礼心だけにしろ、イベットが今の小田島に対して、男に対する女になることを努めて居るのが、小田島にはいじらしくて仕様が無かった。
小田島はしきりに溜息をした。そして一言でも云い掛けると、唄でイベットはまぎらした。
小田島はいつの間にか、眠って仕舞った。
一時間半は過ぎた。何かに自分を根こそぎ持って行かれるような気持ちを、夢うつつの間に覚え、はっとして彼が半身を起すと、もうイベットは彼の傍には居無かった。
イベットが出発する夜の時間に小田島はホテルの玄関に停って居た。
迎えの自動車が来た。しかし、それには市長も金持ちも乗って居なかった。その代り探偵長ボリス・ナーデルが旅行服で乗って居た。多勢のホテルの使用人達に付き添われて出て来たイベットは落付いた色の軽快な服装の為に寂しい威厳まで加わった。其《そ》の立
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