男や、私に何も呉れ無かった男にはいくら最後でも何にも遣る気はしないけど、あなたは可成《かなり》、私の望みにかなって下さったわね。ムッシュウ・小田島。
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小田島は更に赫くなった。
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――私あなたにお礼をするわ。今日十時半から十二時までの間…………私あなたのお部屋へ訪ねて行くわ、ね、よくって? 小田島。
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八
突然、イベットに永訣しなければならなくなった世にも憐れな落胆者小田島は、また同時に世にも羞《はずか》しい果報者となってホテルへ帰った。イベットが訪ねて来る十時半にはもう一時間とは無い。
小田島がホテルの自分の部屋の扉を開けると、今まで意識から抜け切って居た女がまだ部屋に居た。女は浴室《バス》から上ったらしい丈夫相な半裸体のまま朝の食事を摂《と》って居た。車付きの銀テーブルの上にキャビアの鑵《かん》が粉氷の山に包まれて居る。それから呑みさしの白|葡萄《ぶどう》のグラス――小田島は呆気に取られてその傍へ突立った。
女は彼を見ると、それでも沓下だけは大急ぎで穿《は》いた。そして彼の体を全く馴染みの男の様に抱えてテーブルの前の椅子に坐らせた。
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――あんた帰って来ないもんだから、一人で朝飯始めたのよ。まあ朝の御挨拶をしましょうね。ボン・ジュール・モン・プチ。
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そしてナプキンを彼の胸に挟んだ。
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――ところであんた、何を喰べるの。散歩したんでお腹が空いたでしょう。
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彼には今、怒る勇気も抵抗する気力も無いのだ。
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――僕はこれが好い。
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小田島はグラスに酒をついで呑んだ。一杯では胸の渇きは納まらない。
黒パンにチーズを塗り乍ら、じっと彼が酒を※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《あお》るのを眺めて居た女は、此種の女の敏感に伴う微な身慄いを身体中に走らせたが、最後に歪めた眼をだらしなく緩めると力の抜けた様にパンもナイフもテーブルへ抛げ出して云った。
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――やっぱりそうだ。この人はイベットに逢って来たんだ
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