もうそれまでだった。昼の日本堤は用事のある行人で遊里近い往還とも思われなかった。藁葺《わらぶき》屋根を越して廓《くるわ》の一劃の密集した屋根が近々と望まれた。日本建ての屋根瓦のごちゃごちゃした上に西洋風の塔が取って付けたように抽《ぬ》き立っていた。すべてが埃《ほこり》に塗《まみ》れて汚らしく、肉慾で人を繋ぐグロテスクで残忍な獄屋の正体をありありと見せ付けられる感じがした。空だけが広く解放されていて、そこに鳶《とんび》と雲がのびのびと泛《うか》んでいた。国太郎がこの堤を歩くのは今が始めてではなかった。彼はどこの遊里へ入る前にも俥《くるま》を下りてしばらく歩くのが癖だった。遊里へ入る前ほど彼の気持を厳粛にし反省深くするときはなかった。そしてそのときほど彼は彼の若き妻を想うときはなかった。
 相当の地位の官吏の娘と生れ、英語塾で教育を受けた彼の妻の梅子は、当時に於てはモダンにも超モダンの令嬢である筈だ。ところが歌舞伎芝居が好きで、わけて[#「わけて」に傍点]田之助びいきの処から、其の楽屋に出入りしているうち同じ贔負《ひいき》の国太郎と知り合い、官吏の家庭とはまるで世界の違う下町生活の話を聴い
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