れると彼は腹で歯噛みをしながら「いけない」とは決して口へは出されなかった。
 感慨がしきりに催して来た国太郎がうつろに眺めている往来の泥濘に幾十百かの足は往来したが、彼の店には一つも入って来なかった。自分のところの店番の若者と小僧の足袋跣足《たびはだし》の足が手持無沙汰に同じ処を右往左往する。眼を挙げて日本橋を見ると晴れた初夏の中空に浮いて悠揚と弓なりに架《か》かり、擬宝珠《ぎぼうしゅ》と擬宝珠との欄干《らんかん》の上に忙しく往来する人馬の姿はどれ一つとして生活に自信を持ち、確とした目的に向って勇ましく闘いつつある姿でないものは無い。「それに引きかえ自分一人は、没落の淵にぶくぶく沈みつつあるものだ」こう思えて仕方がなかった。彼は舌打ちをして店の者に言った。
 ――もう店をしまえ。おれはこれから客人の交際《つきあ》いに直ぐ吉原へ行くから。家へ帰ったら、おかみさんにもそう言っといて呉れ」

         三

 日本堤まで人力車で飛ばして、そこから国太郎はぶらぶら歩き出した。すべてが惰性と反撥で行動しているように思える自分について、もう少し考えたかった。青楼へ上ってしまえば自省も考慮も
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