っぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程《はんちょうほど》もその男のあとを追って
――あなたは、何誰《どなた》でしたか。
と真面目《まじめ》で男の顔を見て訊《き》いた。男はかつて、かの女の処《ところ》へは逸作の画業に就《つ》いての用事で、或《あ》る雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女が其《そ》の時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々《ほうぼう》で話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業に於《おい》て人気者の逸作と、度々《たびたび》銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚《おうよう》に黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮《やぼ》なまじめを繰り返しても居《い》なかったが、今朝《けさ》の逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直《ぐちょく》な自分を思い出した。
――痛《いた》っ。
かの女は駒下駄《こまげた》をひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石《しきいし》が、一つは角を土からにょっきり[#「にょっきり」に傍点]と立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態《しゅうたい》に変《かわ》っているのだ。裏町で一番広大で威張《いば》っている某|富豪《ふごう》の家の普請《ふしん》に運ぶ土砂《どしゃ》のトラックの蹂躙《じゅうりん》の為《た》めに荒された道路だ、――良民《りょうみん》の為めに――の憤《いきどお》りも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。
――ねえパパ、此《こ》のO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気も納《おさま》るね。
――まあ、そんなものだ。
二人は歩きながら話す。
実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方は一《いっ》ぱいの樹海《じゅかい》だ。緑の波が澎湃《ほうはい》として風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生の為《た》め市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。此《こ》の富豪は我が町に緑樹の海を置いて居《い》る。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。――ものの利害はそんな処《ところ》で相伴《あいともな》い相償《あいつぐ》なっているというものだ――と二人はお腹《なか》の中で思い合って歩いて居るのだ。
二三丁行くと、或《あ》る重役邸の前門
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