、うむ、と逸作は、旨《うま》いものでも喰《た》べる時のような味覚のうなずきを声に立てながら息子の手紙を読んで居る。
 ――ねえパパ。
 ――うるさいよ。
 ――何処《どこ》まで読んだ?
 ――待て。
 ――其処《そこ》に、ママの抒情《じょじょう》的世界を描けってところあるでしょう。
 ――待ち給《たま》え。
 逸作は一寸《ちょっと》腕を扼《やく》してかの女を払い退《の》けるようにして読み続けた。
 ――ねえ、ママの抒情的世界を描きなさいって書いて来てあるでしょう。ねえ、私の抒情的世界って、何なの一《いっ》たい。
 ――考えて見なさい自分で。
 ――だってよく判《わか》らない。
 ――息子はあたま[#「あたま」に傍点]が良いよ。
 ――じゃ、巴里《パリ》へ訊《き》いてやろうか。
 ――馬鹿《ばか》言いなさんな、またたしなめられるぞ。
 ――だって判んないもの。
 ――つまりさ、君が、日常|嬉《よろこ》んだり、怒ったり、考えたり、悲しんだりすることがあるだろう。その最も君に即《そく》したことを書けって言うんだ。
 ――私のそんなこと、それ私の抒情的世界って言うの。
 ――そうさ、何も、具体的に男と女が惚《ほ》れたりはれ[#「はれ」に傍点]たりすることばかりが抒情的じゃないくらい君判んないのかい。息子は頭が良いよ。君の日常の心身のムードに特殊性を認めてそれを抒情的と言ったんだよ、新らしい言い方だよ。
 ――うむ、そうか。
 かの女のぱっちりした眼が生きて、巴里の空を望むような瞳《ひとみ》の作用をした。
 ――判ってよ、ようく判ってよ。
 かの女は腰かけたまま足をぱたぱたさせた。
 かの女の小児型の足が二つ毬《まり》のように弾《は》ずんだ。よく見ればそれに大人《おとな》の筋肉の隆起《りゅうき》がいくらかあった。それを地上に落ち付けると赭茶《あかちゃ》の駒下駄《こまげた》の緒《お》の廻《まわ》りだけが括《くび》れて血色を寄せている。その柔《やわら》かい筋肉とは無関係に、角化質《かくかしつ》の堅い爪《つめ》が短かく尖《さき》の丸い稚《おさ》ない指を屈伏《くっぷく》させるように確乎《かっこ》と並んでいる。此奴《こいつ》の強情《ごうじょう》!と、逸作はその爪を眼で圧《おさ》えながら言った。
 ――それからね。君の強情も。
 ――あたしの強情も抒情《じょじょう》的のなかに這入《はい》
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