離れ、一つの人格として認め得た時から息子への愛が確立したのだ。)本能で各々《おのおの》その親達が愛するのは宜《よ》い。然《しか》し、逸作達が批判的に見る世の子供達は一見|可愛《かわい》らしい形態をした嫌味《いやみ》な悪《あく》どい、無教養な粗暴な、而《し》かもやり切れない存在だ。
――でもパパは、童女《どうじょ》型だの、小児性《しょうにせい》夫人だのってカチ(逸作はかの女を斯《こ》う呼ぶ)を贔屓《ひいき》にするではないか。
――大人で童心《どうしん》を持ってるのと、子供が子供のまんまなのとは違うよ。大人で童心を持ってるその童心を寧《むし》ろ普通の子供はちっとも持ってないんだ。だから子供のうちから本当の童心を持ってる子はやっぱり大人で童心を持ってる人と同じく尠《すく》ないんだよ。
斯《こ》うした筋の通らぬような、通ったような結論を或時《あるとき》二人がかりでこしらえてしまった。
道の両側は文化住宅地だった。かの女達が伯林《ベルリン》の新住宅地で見て来たような大小の文化住宅が立ち並んでいる。だが、かの女|等《ら》は、此《こ》の日本の小技工のたくみな建築が、寧ろ伯林のよりも効果的だと考えられるのである。日本で想像して居たより独逸《ドイツ》人の技巧は大まかだ。影か、骨か、何かが一《ひと》けた[#「けた」に傍点]足りなくて、あの徒《いたず》らに高い北欧の青空の下に何処《どこ》か間の抜けた調子で立ち並んでいるのであった。日本の建築が独逸のそれを模倣《もほう》しているのは一見明白であるが、実物で無い、独逸建築の写真で見た感覚から、多く此《こ》の抜け目の無い効果を学びとったのであろう。かの女達が伯林で、現在眼の前の実物を観|乍《なが》ら、その建築物の写真の載った写真帖《しゃしんちょう》など見並べると、驚く程《ほど》、其《そ》の写真の方が、線の影や深味《ふかみ》が、精巧な怜悧《れいり》な写術《しゃじゅつ》によって附加されている。その写真帖を、そのまま、日本へ持って帰り、日本の人に見せるのは、少し、そらぞらしい嘘をつくようなうしろめたさを覚えた。が、それかと言って、その写真が計画的に修正でもしてあるわけでもなし、それは何処《どこ》までも、その独逸建築をありの儘《まま》に写した写真なのだから仕方がない。人間の顔を写してもそうなのだ、平たい陰影の少ない東洋人の顔より、筋骨《きんこつ
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