た二三のものに過ぎないと言える。その一つが、今かの女に刺戟《しげき》された。――息子に対する逸作の愛情は親の本能愛を裏付けにして実に濃《こま》やかな素晴らしい友情だとかの女は視《み》る。不精《ぶしょう》な逸作は、煩《わずら》わしい他人の生活との交渉に依《よ》らなければ保たれない普通の友人を持たないのである。他の肉親には、逸作もかの女も若い間に、ひどい[#「ひどい」に傍点]めに会って懲《こ》りて居《い》る。その悲哀や鬱憤《うっぷん》も交《まじ》る濃厚な切実な愛情で、逸作とかの女はたった一人の息子を愛して愛して、愛し抜く。これが二人の共同作業となってしまった。
逸作とかの女の愛の足ぶみを正直に跡付ける息子の性格、そしてかの女の愛も一緒に其処《そこ》を歩めるのが、息子が逸作にとって一層《いっそう》うってつけの愛の領土であるわけなのだ。かの女と逸作が、愛して愛して、愛し抜くことに依《よ》って息子の性格にも吹き抜けるところが出来《でき》、其処から正直な芽や、怜悧《れいり》な芽生《めば》えがすいすいと芽立って来て、逸作やかの女を嬉《よろこ》ばした。逸作やかの女は近頃では息子の鋭敏な芸術的感覚や批判力に服するようにさえなった。だが、息子のそれらの良質や、それに附随《ふずい》する欠点が、世間へ成算《せいさん》的に役立つかと危《あや》ぶまれるとき、また不憫《ふびん》さの愛が殖《ふ》える。
――おい、小学校の方でなく、こっちから行こうよ。
――何故《なぜ》。
――だって、子供達が道に一《いっ》ぱいだ。
――早く、墓地へ行って手紙|見度《みた》いから近道行こうってんでしょう。
――………………。
――え、そうでしょう。
――俺は子供きらいだ。
そうだった。かの女はそれを忘れて居たのだ。逸作が近道を行って早く息子の手紙を見度いのも本当だろうが、逸作はたしかに、ぞろぞろ子供に逢《あ》うのは嫌いだった。子供は世の人々が言い尊《とうと》ぶように無邪気なものと逸作もかの女も思っては居なかった。子供は無邪気に見えて、実は無遠慮な我利我利《がりがり》なのだ。子供は嘘《うそ》を言わないのではない。嘘さえ言えぬ未完成な生命なのだ。教養の不足して居《い》る小さな粗暴漢《そぼうかん》だ。そして恥や遠慮を知る大人を無視した横暴《おうぼう》な存在主張者だ。(逸作もかの女も、自分の息子が子供時代を
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