音に感じる。ただ、今はひとのことで或《あ》る時、或る場合|一寸《ちょっと》此《こ》の字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草《しぐさ》や、浄瑠璃《じょうるり》のリズムに伴《ともな》い、「天下晴れての夫婦」などと若い水々《みずみず》しい男女の恋愛の結末の一場面のくぐり[#「くぐり」に傍点]をつける時に、たった一つ位《くら》い此の言葉を使うのは、世話に砕《くだ》けたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月を経《へ》た男女――少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更《なおさら》「夫婦」なんてぷんぷんなま[#「なま」に傍点]の性欲の匂《にお》いのする形容詞を着せられるのは恥《はず》かしい。よく年若《としわか》な夫が自分の若い妻を「うちの婆《ばあ》さん」などと呼ぶ、あれも何となく気取って居《い》るように思われるが、でも人の前で、殊《こと》に器量《きりょう》の好《よ》くない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見《さんけん》しても、ひとのことどうでも宜《よ》いようなものの、好もしいとはかの女は思わない。
 逸作とかの女との散歩の道は進む。
 ――あたし、あなたに見せるものあるのよ。
 ――そうかい。
 ――何だか知ってる?
 ――知らない。
 ――あてなさい、な。
 ――あたらない。
 ――あれだ。太郎から手紙よ。
 ――おい、見せなさいよ。
 ――道のまん中じゃあないの。
 ――好いからさ。
 ――墓地へ行って見せる。
 かの女は袖《そで》のなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、或《あ》るものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、其《そ》の欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返って嬉《よろこ》ぶ。
 散歩に伴う生理調節作用として斯《こ》んないたずらが、かの女には快適なのだった。
 逸作が、他に向《むか》っての欲望の表現はくどく[#「くどく」に傍点]ないのだ。然《しか》し、逸作の心に根を保っている逸作の特種《とくしゅ》の欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するに倦《う》まない男だ。逸作の特種な欲望とは極々《ごくごく》限られ
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