が生れて以來數々のものに觸れてゐるうちに、他の一切のものは忘れても、或るものだけは何時までも覺えて居る、そして墓の中までも之れをその人の身についた財産のやうに持つてゆくといふことは、之れと其の人とのあひだに、何ものか因縁があるので無からうか。人がまさに溺れようとする瞬間、自分の忘れてゐた過去の生涯を吃驚するくらゐ鮮明に、卷物でもひろげてゆくやうに一刹那のあひだに見ると、今日の心理科學は教へてくれる。
そんならわたし共の記憶といふものは全部この心理科學の示す定説のとほり、忘れられてゐるものも死んでゐるのではない。だがその中に特に最初から深く心に沁み込んで覺えて居り、それが人によつてそれぞれものが違ふといふのは、何ものか人それぞれの特殊の質《たち》、特殊の生れつきに據るとは考へられないものだらうか。溺れる間際によみがへつたり、ものの香ひなどを嗅いで、思ひもつかない遠いことを突然思ひ出す吾々の記憶作用、そんな方面の人間の記憶の不思議な働きは今言はないとしても、それとは反對にわたし等自身が特にそれぞれ幼い折りから明白に記憶してる方面のもの、人がこの世界に生れて以來最初の頃の記憶として永く幾つ
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