赤子の時より精神に刻みつけられたる言語を離れて、魂に眞實に響く文學的活動はない筈である。作者に於て然り、また同郷人間に於て然りである。○一方地方主義者は國内の各地方語を主宰し、民族全體の文明を負うて鍛へられたる、乃至鍛へられつつある共同語(今日普通に標準語と云はれてゐるもの)をも尊重する。そして文學的に成熟されたるそれの種々の機能、形式をも尊重する。だがそれはそれ、之れは之れである。○共同語は國語の代表的な位置に立つものであるが、國語の全體ではない。地方語、少くも方言をも併せてそれは國語である。○多くの日本人が間違つて讀んでゐるやうに、三保の松原を Mio−no−matsubara と發音しては三保の松原の情景の出ないことは、一度その土地に行つたことのある者の經驗することである。その土地では三保を Miho と h の音を響かせる。上州の吾妻郡に對するアヅマ郡、利根上流の吾妻川に關するアヅマ川も同樣な謬りの例(正しく發音すればアガツマ郡、アガツマ川)である。聲音は言葉の存在の形體である。從つて聲音を無視して言葉はない。○吾日本に於ける漢字の使用は、日本人の言語上の意識を甚しく毀損した。
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