で無いのだと氣のついたことが、わたしの二十五年代の思想を一變させてくれた示唆の一つとなつたからである。
[#地から1字上げ]大正十二年春・名古屋にて
親の土地
※[#ローマ数字1、1−13−21]
汽車は山峽《やまあひ》を出たのか、兩方に山脈が廣く展けて行つた。愈※[#二の字点、1−2−22]來たなと、後の支度は妻にまかせて車室の窓をひらき、身體が半分はみ出すくらゐ車外に乘り出して、汽車の進行してゐる方の前方の景色を見た。
此時はじめて分つたが霙といひたい位な、目にも見えぬ薄い細かい吹雪が汽車の進行する前方から、眞つ直ぐに吹きつける烈風に送られてやつて來て、それが眼と言はず、鼻と言はず叩きつけ、頬邊《ほつぺた》を削《こそ》げるやうに冷たく濕《うるほ》してゆく。それを我慢して汽車の前方の左一帶を見まもると、汽車は今まさしく平野に行く傾斜地の高地にさしかかつて、兩側の山脈が末ひろがりに展けてゆく平野の縁《ふち》は、向うへ向うへと遠のいて行き、紛れもないわたしの生れ故郷の市《まち》の環境――つまり平野に望んだ低い山地のたたずまひが前方遙かに見え出した。
併し家らしいものは山の臺上《だいうへ》にも臺下《だいした》にも見えず、ただその上下《うへした》の所々に散點する森や林やの黒い影をうしろに透《す》かして、霧のやうなものが薄《うつ》すり棚曳いてゐるのが、望まれるだけであつた。
二十年まへわたしの眼界から消えてしまつた生れ故郷の城下町弘前は、この山裾の隅にあるのだと思ふと、前方から吹雪まじりに吹きつけてくる痛い空氣以上に、何かまた別な空氣がこの景色の土地一杯にひろがつて、それがわたしの肺にも這入れば眼にも沁みるやうに思はれ、異常に引きしまつた心持になるのであつたが、山裾のあひだに小さくても、人家の屋根のぎつしり並んだ都會の眺望を當てにしてゐたのに、密雲のもとに反射する光も艶もない雪の山と平野との無人境同樣の景色を見れば、「こんな處で何處に人間が住んでゐるのだらう」と憮然とならざるを得なかつた。
密雲のもとの山脈は灰色のテーブルクロースを不行儀に、平べたく折り重ねて行つたやうに、平原の片側を轉回《のたうつ》てゐる。そのところどころに例の霧がうつすり地の上を這つてゐる。これは然し霧ではないんだらう。今わたしの頬邊《ほつぺた》を吹きつけてゐる目にも見えないくらゐ、薄い細かい吹雪が彼の邊に吹き廻つて、それが、霧のなびいてゐるやうに見えるのであらうと、わたしは其のテーブルクロースの隅々に目を走らせてゆく。連脈のうへに一と際《きは》高い山が上部は密雲のなかに塞《とざ》したまま、鼠色な腹を示しはじめた。この地方名うての靈山岩木山だなと、わたしは心のなかで合點《うな》づいた。餘り寒い景色なので別に感興も起らない。ただ雲のしたに現はれた裾ひろがりの鋭いスカイ・ラインをぢつと見まもる……
「私にも見せて頂戴、よう、よう」
と今年|四歳《よつつ》になる長女が、妻のベンチから鼻聲を鳴らしてゐる。
「駄目、駄目。寒い風がピウピウ吹いてるんだよ。」
「いやいや。見るう。ひろ子も見るう」と足をバタバタやつてゐる。
わたしは窓を離れて妻のベンチの處へ行つた。汽車は終驛が近いので、上野驛以來の乘合客も大半降りてしまつて、車内はわたし等夫婦親子の專有かのやうに、廣くガランとしてゐる。ベンチの凭れ板の列と、默りこくつてゐる些少の乘合客の頭とを越して、車室の突き當りに掛つてゐる掲示板が見透しになつて居り、窓外の險しい景色とは打つて變つて、ここは其處らの窓に蠅でも唸つてゐないかと思はれるくらゐ、ひつそりして暖かくうん氣[#「うん氣」に傍点]ざしてゐる。
妻はうしろ向きになつて、昨夜からベンチに敷詰めの毛布をこまめに疊んでゐる。
「貴方どう。もう弘前が見えて」
「いや未だ仲々」
「支度は皆《みんな》出來たわ」
「さうかい」
わたしは窓外の景色に少し興が覺めてぼんやり答へた。この汽車を降りたら直ぐ寒暖計が一遍に二十度も落ちるやうな、外氣のなかにさらされるのだと思ひながらその前屈みになつてゐる妻の後姿をぢつと見た。
彼女は肥つてゐる上に思切り着物を着込み、その上に當歳の赤ン坊をネンネコで負《おんぶ》してゐるから、いつもより餘程膨大された恰好になつてゐた。傍には私等の鞄や信玄袋や風呂敷包でベンチが一つ盛り上つてゐた。
「でも岩木山が見え出したよ」
「ぢやもう市《まち》が直きなんでせう」
「それが家ひとつ、人つ子ひとり見えないんだよ」
わたしは例の遠くの森や林を流れる薄い霧を目に浮べた。
「父ちやん、わたしにも見せて」と長女が再び手を差しだして延びあがる。
「よし父ちやんの故郷を見ろ。えらい處だぞ」と、わたしは毛糸づくめの洋服で之れも着膨れた
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