地方主義篇
(散文詩)
福士幸次郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眞青《まつさを》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)城下|市《まち》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]
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最初の時代
眞青《まつさを》な海のうへに夏のやうでもなく、秋のやうでもなく、慥かに春の日がその華かさが更に、烈しいとでも言ひたい位の正午の光を受けて、北海道通ひの蒸汽船が二艘、遙か遠くを煙りを吐いて走つてゐる。わたしは今にその玩具のやうに小さいながら、黒びかりする船の姿と、吃水面際の赤い彩《いろど》り、薄くたなびいた煙り、またはこれ等一切を取りまく、春光《はるび》のもとの明色《めいしよく》の濃い海の青を、三十何年來幻のやうに思ひ泛べられる。
十五の時には黒い夏の日本海が十間ばかり白い泡を吐いて、無人の岩くれ立つた磯を打つのを見た。岩の間には淡色《うすいろ》な撫子や、しをらしい濃紫の桔梗が咲いて居り、磯を離れて半丁ばかりのところに、屏風のやうに屹立した斷崖の上には、もう秋の口らしい蜩が鳴いてゐた。これはまだ郷里の中學にゐた頃、ひと夏その地方の西海岸を廻つた時の印象であつた。
二十の年には、その頃もう東京に來てゐた時分だが、夏の眞盛り時、房州海岸を半月あまり旅をして、北日本海の海とはまるで違つてゐる、緑の濃い、明色《めいしよく》な太平洋の海を椿の樹々《きぎ》のあひだから眺めた。
だが日本海と格別ちがつたこの冬《ふゆ》眞中《まなか》にさへ暖かく明るい大洋も、あのわたしが三十何年まへ山裾の城下|市《まち》から、十何里はなれた港へゆく途中、うまれて初めて見た耀《かがや》かしいばかり綺麗な、濃青《こあを》な海の色あひには及ばない。その時の汽船が北海道通ひの船だといふことを知つたのも、それはも少し年とつてからである。蒸汽といふものだといふことを知つたのも、あとでのことである。更にそれが海といふものであるといふことも、まだ齒のやつと生えかけたばかりのその時のわたしには、わかつてゐたことでは無い。ただわたしはそれを沙漠のなかの映像ででもあるかのやうに、一生涯わすれ得ない美しい極彩圖、この世に生を享けて以來最初の神祕な記憶、その一瞬間から永いのちのちまで蠱惑する「夢」として殘されたのである。
移住民……! これもあとで分つたのだが、わたしの家族はそのとき、親代々住みなれた地方一の城下|市《まち》を離れ、幌をかけた荷馬車に搖られ搖られして、山裾から平原を北に横ぎり、山峽《やまあひ》の險しい國道をとほり、峠をのぼり下りして、その別な平原にまさに這入らうとした口《くち》で突然と山が切れ、海が右にひろがつて、にこやかに、氣輕に、春のひかりのもとに眩ゆいばかり青々《あをあを》と、荷馬車の上の一行に現はれたのである。
わたしの一家はその頃|零落《おちぶ》れたどん底にゐたらしいが、父も母も、またわたしにはただひとりの同胞《きやうだい》たる兄も、みな綺麗な事では知合ひの間には評判であつた。母はわたしの幼な年にも覺えてゐるが、色白の面《おもて》に剃つた青い眉根と、おはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]との映《うつ》りの好い顏だちであつた。その頃十一の小ましやくれた、しかし勉強に精を出す兄は、女のやうに美しいと賞められてゐた。父はと言へば御維新の後々《あとあと》までもチヨン髷をゆひ、「玉蟲《たまむし》のやうに光る着物を着た」好い男と言はれた。わたしの直ぐまへには、どれも四歳ぐらゐで死んでしまつたけれど、矢張り綺麗な子と賞めそやされた、兄が二人あつた。さて末子のわたしは父親母親のかす[#「かす」に傍点]で出來たに相違ない。「この兒は一番不器量だ」と生れたときに、誰かに言はれた。わたしは全く親同胞に似ぬ不器量な、そして擧動の至極ボンヤリした子供であつた。でもこの子供がまだ乳呑兒と、誰しも見るその年《とし》で、どうしてそんなことをと思へるくらゐ、二歳《ふたつ》から三つ四つ五つぐらゐの年齡《とし》までの、とぎれとぎれながら樣々の周圍の光景を、幻のやうに今なほあざやかに記憶してゐる。海の蠱惑はその中でも眞初めのものである。ああ、十二里の平野と山間の路を、荷馬車一臺に親子四人を乘せたか、人と荷物とを車二臺に分けたか、さういふことは知らないけれど、その時母の膝の上にでも抱かれてゐた、まだ滿にして一歳《ひとつ》にもならぬこの乳呑兒は、乳の香りする息を吐き吐き、春の光の下《もと》の海といふ晴れがましい極彩の魔女の衣裳を、不思議な樣にマンジリ目を開いて見|戍《まも》つてゐたのである……
人間
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