が生れて以來數々のものに觸れてゐるうちに、他の一切のものは忘れても、或るものだけは何時までも覺えて居る、そして墓の中までも之れをその人の身についた財産のやうに持つてゆくといふことは、之れと其の人とのあひだに、何ものか因縁があるので無からうか。人がまさに溺れようとする瞬間、自分の忘れてゐた過去の生涯を吃驚するくらゐ鮮明に、卷物でもひろげてゆくやうに一刹那のあひだに見ると、今日の心理科學は教へてくれる。
 そんならわたし共の記憶といふものは全部この心理科學の示す定説のとほり、忘れられてゐるものも死んでゐるのではない。だがその中に特に最初から深く心に沁み込んで覺えて居り、それが人によつてそれぞれものが違ふといふのは、何ものか人それぞれの特殊の質《たち》、特殊の生れつきに據るとは考へられないものだらうか。溺れる間際によみがへつたり、ものの香ひなどを嗅いで、思ひもつかない遠いことを突然思ひ出す吾々の記憶作用、そんな方面の人間の記憶の不思議な働きは今言はないとしても、それとは反對にわたし等自身が特にそれぞれ幼い折りから明白に記憶してる方面のもの、人がこの世界に生れて以來最初の頃の記憶として永く幾つか保存されてゐるもの、この幾つかのものに特にわたし等の生れ乍らの質《たち》と、隱約の間に何か關係があるのではあるまいか。
 或る人の最初の最も鮮かな記憶といふものは、その人の暗い一生のもとに、暗く使役《しえき》された暗い感情の、逸早《いちはや》く現はれたものであるかも知れぬ。かういふ人にとつてかういふ種類の記憶は、思ひ出すさへ彼の心を掻きむしるものである。
 又或る人の記憶には特に道徳的にその人の心を、色なり、※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]ひなり、或ひは影なりでもつて、夙《はや》い頃から暗示《ほのめか》してゐる何ものかがあつて、その人の光明のある立派な道を可愛らしく美しく純潔に、飾つてくれてゐるものがあるかも知れぬ。
 だが私等藝術に從ふものは、特にこの世界の美を愛《いつく》しむ心が惠まれてゐる故に、そしてこの世界の美といふものは、ものによつて一番幼い子供にもたやすく、感受出來るものである故に、そのあどけない、屈托のない子供心の中に無數に受け入れた印象のうちで、一番心に適つたものを一つ二つ、「この子が此位の年で」と驚かれる時分に、何より鮮明に感銘される事になるかも知れぬ。

 或る人の覺えてゐるのはまだ乳呑兒の頃に、枕の傍で添伏しの母の懷のなかから、樂しく聞いた時計のオルゴオルの音色《ねいろ》である。また或る人は自分のために親が立ててくれ、空高く飜へしてくれた、鯉のぼりの偉觀は忘れてゐるが、今もまざまざ知つてゐるのは、どうしたわけか小川の底に沈んでゐるその鯉の殘骸たる金と黒とのきれ地である。或る人は音樂に特に最初の記憶がある。或る人は色彩に特に最初の記憶がある。何でもないことのやうであるが、ここにその人の兩親が與へた性質をも更に潜り、強く何ものかから受けついで來て、後々の生活をも支配する事になり、各人にとつて相違し、各人にとつて不變なる或る特質があるのでないか。それは虐《しひた》げられた暗い幼時の記憶や、特に教育や訓練によつての道徳的なものがほの見える幼時の記憶のそれとは全くこと違つて、美といふものに對するこの種の記憶は、自分ひとりでの心から躍《をど》り出たものであるから、一層その人の生得の性質、つまり個性といふものにも根據してゐるし、また至極單純な心で得られるものでもあるから、まだ西も東も知らない稚《いはけな》い心でも、後々《あとあと》までも美しい夢のやうに定《さだ》かに、心のなかに取り入れ納めることが出來る物ではなからうか。

 わたし等一家が港へ移住した頃、わたし等一家といふものは至極あはれな、みじめな、大工|生活《ぐらし》をしたものだと云ふが、それに關しては、わたしの記憶はまだまだ二三年後の年のものに、初めて薄ぼんやりと現はれて居る。それよりまづ最初のものとして殘つてゐるものは、あの海の記憶、つまり前述のあの荷車の旅で母に抱かれて行つた途上、多分吸ひ飽きた母の乳房もその時離し、眼を荷車の前方にやつて、折り柄山脈が切れはじめて横顏をあらはしにこやかに彼方《あなた》へとひろがるのを見たあの青い海の記憶である。八歳《やつつ》九歳《ここのつ》後から暗い魂に浸る運命となつたわたしに、この記憶がわたしの一生の或る頃の年代、つまりこの人生を絶望し見限つてゐた二十五六の厭世時代に、不意に蘇つて來てくれたことは、當時のわたしの救ひの主となつた。なぜなら此の美しい海の景色に瞬間に溺れたわたしの心の中には、このわたしといふ人間の持つて生れた性質が、その時そこらの道端に多分生え出してゐた青草のやうに、可愛らしく生きてゐるもので、決して厭世的なもの
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