なになるには隨分苦勞したべ」と彼は優しく勞《いた》はるやうに言つた。彼は青森市の少壯政治家として、地方民に囑望されてゐるのを、一二年來何處からとなく聞いてゐる。なるほど人好きのするゆつたり[#「ゆつたり」に傍点]した偉丈夫だ。
「ああ苦勞したよ」とわたしは苦笑して、
「未だにその苦勞から脱けきらないで、今度は罹災民で都落ちだ」
「そして何處へ行く?」
「板柳だ」とわたしはこの弘前市から三里ほど北の町の名を言つた。
 彼は氣うとさうな斜視《すがめ》の眼で何處《どこ》を見るともなく見つめて、依然頬には人の好ささうな微笑を漂はせてゐた。輕薄な冗談ひとつ言はないが、人を惹きつける快い力が、その無言の身體のうちに溢れてゐる。わたしはまた故郷の大地の何ものかに觸れた氣がしたのである……
 わたし共は暫く昔話をしたあと、再會を期して別れた。

 この晩わたし共夫婦親子は弘前市の次ぎの驛で、夜遲くまでまた待たされた。ここは支線の汽車の立つ驛で、津輕平原を北に日本海を指してゆく處である。プラツトフオーム[#「プラツトフオーム」は底本では「プラツトフヤーム」]にある四方玻璃窓の待合室で待つてゐたのであつたが、雪はここへ來て以來本降りになつて、もの凄いくらゐ降りこめた。二十年この方睡つてゐたわたしの本能は目ざめて、身體に言ひ知れぬ力が漲つてきた。雪國の人間は雪を見ると氣が張つてくる。わたしはストーヴに足を突き出しながら、故郷の最初の夜の感銘を思ひふけつてゐた。妻はストーヴ前のベンチに腰かけて居睡つてゐた。ひろ子は毛布に厚くくるまれて、父の故郷の土地で最初の熟睡をしてゐた。待合室には他《ほか》に人がゐず、ストーヴの石炭だけが赤い焔を吐いて、遠方の風のやうな音を立てて勢ひよく燃えてゐた。
[#地から1字上げ]大正十三年六月十七日・津輕碇ヶ關にて

  土地の愛

 林檎畑のなかの路を夜十二時過ぎにとほる。廣い畑地《はたち》で、星闇のしたに林檎の樹が、收穫後の裸の影を無數に踊らせてゐる。だが果物畑といふものは、今の樣に果《このみ》が一つもない時候になつたつて、また今夜のやうに樹の姿がそれとしか闇のなかに見えなくなつて、すがすがしい氣持がするものだ。
 わたしはそこでどんな遲い晩でも、この廣い果物畑《くだものばたけ》を三四町眞直ぐに突つ切つて、途中家と言へば林檎の番小屋に毛を生やしたやうな、百姓家の二三軒しかない眞つ暗な路を通つて、自分の家にかへる。イギリスあたりの水彩畫にある高い茅屋根と、窓あかりを樹木の間から現してゐる百姓家が、まばらな家並みを續け、店屋《みせや》といふと殆ど無いと言つてよい村の廣い本通りを歩かないで、この果物畑の直線の路を通つて、自分の家にかへる。
 ところでそれがどれくらゐ私に適《かな》つたものか、惠みの多い、頼母しい、ただし正體の知れない感激が、この場合にひしひしとわたしの心を捉へる。路のうへに湛へてゐる水溜り、四五日前に降つた雪が融けて黒闇々の地上に星影を映してゐるので、それがあるのが僅かに察せられる水溜りに、ヂヤブヂヤブとゴム長靴を下ろしてゆく瞬間に、胸は言ひやうないときめきに攫はれてゆく。
「こんな淋しい果物畑の路を淋しいとも思はず、かへつて無限にたのしいとくらゐに思へるのは不思議なことだ。こんな經驗はあの永い東京生活のなかで、一遍だつて味はつたことがない。これといふのも此處は例によつて自分の生れた土地の地續きだからだ」
 といつもの觀念に頭のなかの物が移りこむ。自分の生れた土地といふのは弘前の事で、今私の住んでゐる此の村はその弘前から三里離れてゐる。地續きのお膝下《ひざもと》の村と云つていい。人間と土地とを結びつける神祕的關係、自分の親も嘗つて此の土地を踏み、その親の親たる祖先も嘗つて踏んだのだといふ眼に見えない關係が異常に強く心に働く反射的意識、わたしの頭には十三の年死別れた父親が今のわたしらの年、何かの用事でこんな星闇のおそい晩、ここいらを獨りさびしく歩いたかも知れぬと思ひ、またここから未だ少し北にある村から聟になつてきたといふ祖父が、おなじやうにその一生中の此の年頃に、たけしい心持を懷いてここいら邊を深夜獨り旅したことがあるかも知れぬと思ふ。
 大自然はたとへ死物でも、人間が幾代も掛けて作り出す縁故は、人間の意識を不思議な深さまでくり擴げる。これが深夜無人の境地のやうな廣い林檎畠の路をあるいても、わたしを少しも淋しがらせてくれないのである。
[#地から1字上げ]大正十三年十二月・津輕青女子

  土地の愛

 故郷、故郷! ほかの土地の人間からどんなに詰まらなく見えるところでも、これを故郷とする人間にとつて土地が心に及ぼす作用は異常である。われ等がこの世に初めて生れいでた土地に生えてゐる一と撮みの草だつて一とかけの石
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