ころだつて、他《ほか》のどんな處でも味はふことの出來ぬ感動を、情愛を、時には思想をまでも齎してくれる。それは吾等人間と外界との間に横はる隱約な契合である。自己と環境との間に横はる微妙な必然法則である。この點これを無くした世界は吾等人間の心を空虚にしてしまふ。呪ふべし、日本現在の生活精神といふものは、悉くこの事實を無視してゐる。そして土地が人間に結びつき、人間が其處に作る社會精神を特有のものにし、社會結合を鞏固にしてゐる關係なぞには、全く盲目である![#地から1字上げ]大正十四年夏・津輕青女子

  田舍唄の風景畫

 郷里生活をした初めの年の夏、裏日本の北部でこの季節には特有の青い高い空から、すがすがしい微風が吹きおろされ、地上は寛《くつろ》いだ、幸せな、ひそまりかへつた空氣を一杯に擴げるのであるが、わたしは此の頃の或る日、北津輕郡内の小都會の板柳で、いつまでも心に沁みてわすれがたい田舍唄の一とくさりを聞いたことがある。それはボサマと呼ばれるこの地方特有のブロヴアンサアル、即ち漂泊歌唱隊(註一)が、とある門口に立つて、三味線のひなびた旋律のもとに、
 ながく咲くのは胡桃《くるみ》の花よ
 とそれこそ聲を長々と引つ張つて、號泣するやうに唄つた一と文句である。
 わたしは山間の坂みちから、木の茂みや、屋根で重なりあつた谿底の村が眼に浮んだ。そこには胡桃の大木が、田舍びた滿枝の花を見せて咲きさかつてゐた。
 ながく咲くのは胡桃の花よ
 純朴な田舍人《ゐなかびと》の見つけた感動すべき風景畫である。
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註一。ボサマは坊樣《バウサマ》で、盲人の男女の唄うたひ、此の地方から北海道までも逍つて歩く。唄はジヨンカラ節、ヨサレ節なぞといふ津輕民謠で、この胡桃の唄も或るジヨンカラ節の一句である。
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  早春の花

 融雪期が進行していつて其の遠い果てが海まで續くひろびろとした津輕平野で、去年の枯草と今年の新らしい黒い土とが春の日光を浴びる時、またこの平野を圍む山腹のそちこちの澤や、谷が薄い靄を棚引かせて、その奧に山肌の荒い襞《ひだ》を藍色におぼめかせるとき、わが郷土の農村の空はコブシの花で飾られる。
 コブシはこの地方では普通|田打櫻《たうちざくら》と言ひならして居る。丁度この花の咲くあたりから、百姓は烈しく働き出し、岩木川沿岸のひろびろとした平野では到るところ田打ちを始めるからである。
 雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の低空《ひくぞら》に、遠眼にもてらてらと白い艶《つや》を放して田打櫻《たうちざくら》の咲く見事さは、奧の日本を未だ知らぬ人には想像がつくまい。それは今も蝦夷の凄涼な俤を殘す此處いらの娘の齒のやうに、淨《きよら》かに白くかがやくのである。

  處女性の海

 故郷を二十年も離れて日本南方の海の明るさに感心し續けて來た感銘では、今故郷の津輕《つがる》の海を見たとて貧血な景色だと映る位の事で、特別な興味も無からうと思ひながら、G――公園の海水浴場へこれから行くといふ友達一家の人達と、A――市に滯在中の或る日、自動車で押出したことがあつたが、公園入口の松原で皆々下車するあたりから、わたしの見込みは崩れはじめた。まづ其處では東海道、關西の海岸の松原なぞは埃《ゴミ》つぽいと思はれるやうな松原が、小サツパリした姿をあらはして一と目《め》で私の眼の膜を拂つて仕舞つた。蒼《あをぐろ》い茂りを東北地方夏季中特有の優しみある空に、高くのびのびと差出してゐる松の廣い方陣、その方陣と方陣とのあひだに所々空間があつて、綺麗な芝生《カガハラ》で縁《へりど》つた野球グラウンド、テニス・コート、時には白ペンキ塗りの棒杭だの木の柵だのを曲り角に置いて、松原の中へ抛物線状に繞込《くねりこ》んで行くらしい散歩道、水底が水草で彩られて縞を成してゐる小さい川……。その内松原の一方が沼地に成つて、海岸の砂地に續く平面な場所が暴露する。も少し行くと、水平線の低い海が帶状《おびじやう》を成《な》して、砂地の膨れあがつた曲線の彼方に現れる。稜を鋭く何箇所か空《そら》に目がけて切り立つて、孔雀石と翡翠の明暗を隈つた半島が此方の海岸《かいがん》に詰め寄せるかのやうに鮮《あざや》かに浮出してゐる。そこは東北地方の風景といふ先入觀念を完全に拭《ぬぐ》ひとるに足る明るい澄んだ、そして又おとなしい畫面《ぐわめん》である……。

 海《うみ》に出るといふ私の衝動は失綜し、歩《あし》をなほ進めて行く事に何かしらんはにかみたい樣な意識が湧いて來た。二歳《ふたつ》の年齡《とし》から十六歳《じふろく》になるまで何度見たか知れないこの海を、わたしは畢竟|痴《ウヂ》ケデ空虚《ボヤラ》と見て居たのだ。そこの表情には春、雪解けの野原で銀色の草の若芽
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