どころか、嘗てそんな夫を持つてゐたといふそのことさへ、誰かに左う思ひ込まされてゐるばかりのことではないのか。…………
 見て、彼女はギクとした。娘が勝手に茶碗を取出して來てゐる。
「いけない!」
 奪ひ取るが早いか、彼女はそれを庭石の上へ激しく投げた。夫の心臟が破れる音。突然彼女は眉毛を逆立てて自分の茶碗を投げつけた。しかしこの音こそ夫の心臟が破れた音ではないのか。彼女は食卓を庭へ突飛ばした。この音? 壁に全身をぶつつけて拳で叩いた。襖へ槍のやうに突きかかつたかと思ふと、襖の向ふ側へ轉り出た。この音?
「かあさん、かあさん、かあさん」
 泣きながら追つかけて來る娘の頬をぴしやりと打つた。おお、この音を聞け。
 その音の木魂のやうに、また夫から手紙が來た。これまでとは新しい遠くの土地の差出局からだ。
 夫の心臟は破れずにあつた。彼女は高い喜びと深い苦痛を同時に感じた。
(お前達は一切の音をたてるな。戸障子の開け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ。)
 おゝ何といふことを! そして「お前達の家」と遂に夫は呼ぶ積りなのか。
「お前達」と彼女は口に出して呟いて見た
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