い。そして若し彼女等が此の世にゐないのだつたら…………どちらにしても、靴の音を聞く苦しみから、自分は全く解れることになるのだ。――
第三の手紙は、最初と次の手紙の間隔より遙かに短い、一月の間をおいて投げ込まれた。
そしてその音も、次々小さく、然も段々質が固く冷くなつて來た。
(子供に瀬戸物の茶碗で飯を食はせるな。その音が聞えて來るのだ。その音が俺の心臟を破るのだ。)
○
彼女が夫の上に氣遣つてゐること、そしてまた自分達の上に願つてゐること。夫の手紙はそれらのことに一筆だも觸れてゐない。妻は昔にかわ[#「わ」に「(ママ)」の注記]らない夫の冷酷をそのなかに見た。然し、何といふ苦しみ樣だらう。不自然な老いが此度の手紙には察せられるではないか。
――そして短い文面の不思議に嚴かな力は、此度も彼女をその命に從はせるのであつた。
彼女は薄氷の上に立たされる思ひで生活してゆかなければならなかつた。夫の今にも破れそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]うな心臟――それを預つてゐるといふ意識の如何に重いこと。
夫はもう死んでゐるかも知れない。そんなことも彼女は思つた。死んでゐる
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