のであつた。
 其の音に彼は搾木にかけられたやうに苦しんだ。そんな自分を、彼はどうすることも出來なかつた。
(子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて來るのだ。その音が俺の心臟を叩くのだ。)
 彼は思ひ餘つてそんな手紙をかいた。封筒の表書をすませると、彼はそんな國、そんな町が一體存在したのかどうかも疑はしかつた。封筒に裏書はしなかつた。そして投函した町から、直ぐ彼は去つた。
 もう彼にはゴム毬の音は聞えて來なかつた。生活《なりはひ》の響、瀬の音、木の葉ずれ、そんなものが旅に出た當初の鮮かさを持つて彼に歸つて來た。が、それも永くは續かなかつた。心が重くなつて來た。戛々と――それは娘が路を踏む靴の音ではないか? その音は必ずいぢらしい娘の登校姿を心象に伴つて來るのであつた。彼は黴臭い旅籠の蒲團の上で轉輾した。
 戛々、戛々、父の心臟の上とも知らず、いたいけな娘の歩く音。
(子供を靴で學校に通はせるな、その音が聞えて來るのだ。その音が心臟を踏むのだ。)
 彼はまた手紙を書いた。左うする外に、どういふ方法も彼は知らなかつた。たゞ彼は信じてゐた。若し妻が手紙を受取れば、子供から靴を脱がすに違ひな
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