膽な手法は全く驚嘆に値する。
 これらの作品及び「機械」「空腹について」などは第二詩集以後の彼の詩の主流をなすものである。それは次に「光について」の難解な一群の詩へはひつてゆく。私はそれへはひる前にこれらの間に介在してゐる傍流的なものを調査し整理してゆかねばならぬ。
「萎びた筒」「剃刀」などは「三半規管喪失」的なものである。前者のキタナさ、「剃刀」の痲痺的痛覺。共に彼の第一詩集から生き殘つたものである。私はいまもこのキタナさを愛してゐる。
「ラッシュ・アワア」も「風景」も「檢温器と花」的なものである。
「菱形の脚」「砂埃」「花」の三つの「支那風景」は「光について」などと竝行して書かれたものである。おそらく休息的な愉しさが彼をとらへたのであらう。人をして微笑ましめる。秀れた作品である。菱形の脚の間に見えてゐる風景、女の姿をかくしてしまふ砂埃、心憎いことである。
 さて私は「光について」へはひらう。
 彼はこれらの詩に於いて「絶望の歌」以後の更に深い精神的苦悶の時期を經てゐる。彼の詩は難解になつた。このことは一つの極點を暗示してゐる。即ち彼が自己の主觀のなかに苦しむことの、これが最後の姿な
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