が地べたへひつつく」といふ空間を無視した表現法のためである。これによつて彼は知覺、若しくは感覺の速度を表現し得たのである。私はここに後來「馬」等々に達した端緒の一つがあると思ふ。それは空想と云はんよりは實感であり、實感であるよりは實感をあらはすための手段であり、――そしてそれは最後の段階に達して、手段そのものから嘗て一度も人間の頭腦に存在しなかつたやうな「實感」を呼び起す作品を形成する。「對象を主宰して獨自の世界へ連れてゆく」やうな詩とは畢竟この段階のものを指すに外ならない。北川冬彦の「馬」は cubist を聯想せしめる。しかし決して「故なくして」ではないのである。
その他彼は多くの cubist 達を聯想せしめる作品を「檢温器と花」のなかに書いてゐる。例へば「水兵」「女と雲」の明るい風景。「薄暮」「壁」の陰氣な風景。そしてここに示された彼の手法は實に完璧である。
北川冬彦にも嘗て器物愛好があつた。それは何を。檢温器をである。では彼は病氣ででもあつたのか。否。「樂園」「落日」――この抒情的な靜けさのなかで、彼はそれを愛することをおぼえた。
「花の中の花」「檢温器と花」といふ詩集の
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