三詩集たる部分へは入つてゆくことにしようと思ふ。
北川冬彦は嘗て最も潔癖に日本産の文學をうけつけなかつた詩人である。彼の愛したのはフランス、それもダダ以後の人々であつた。その代りその愛しやうは全く一通りのものではなかつた。私は屡々不思議な氣持に打たれたことがある。それは彼がそれらの人々に對する先輩としての尊敬や僚友としての友情を、まるでそれらの人々がみな東京に住んでゐるかのやうな「間近さ」で表現するからであつた。アポリネエル、ジヤコブ、コクトオ、ブルトン、エリュアル、――それからマチス、ピカソ、シヤガル、アルキペンコ等々の畫家についてもそれは同樣なのであつた。「檢温器と花」はなによりもこれらの人々との親和をよくあらはしてゐる。
彼は「檢温器と花」の後記に、ジヤン・コクトオの所謂「對象を消化して、次第にその主宰する獨自の世界へ連れていくやうな詩」を意圖したと云つてゐる。それは作品の全般について云はれたのではないが、たしかにそれらの作品はこの詩集の精髓をなすものである。私はその典型的なものとして「椿」「馬」「爬蟲類」「秋」などを擧げたい。
「椿」は Statics の領域内にあつたもの
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