いる。可哀《かわい》そうだなあと思う。ついでに、私の咳がやはりこんな風に聞こえるのだろうかと、私の分として聴いて見る。
 先ほどから露路の上には盛んに白いものが往来している。これはこの露路だけとは云わない。表通りも夜更《よふ》けになるとこの通りである。これは猫だ。私はなぜこの町では猫がこんなに我物顔に道を歩くのか考えて見たことがある。それによると第一この町には犬がほとんどいないのである。犬を飼うのはもう少し余裕のある住宅である。その代り通りの家では商品を鼠《ねずみ》にやられないために大低猫を飼っている。犬がいなくて猫が多いのだから自然往来は猫が歩く。しかし、なんといっても、これは図々しい不思議な気のする深夜の風景にはちがいない。彼らはブールヴァールを歩く貴婦人のように悠々《ゆうゆう》と歩く。また市役所の測量工夫のように辻《つじ》から辻へ走ってゆくのである。
 隣の物干しの暗い隅《すみ》でガサガサという音が聞こえる。セキセイだ。小鳥が流行《はや》った時分にはこの町では怪我人《けがにん》まで出した。「一体誰がはじめにそんなものを欲しいと云い出したんだ」と人びとが思う時分には、尾羽打ち枯らし
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