いふものに、あまりにも密接に自己を通して馴染すぎ、知りすぎてしまつてゐて、畫を見るよりさきに、もう澤山といふ氣持に、しらずしらずなつてしまつてゐるのだ。ゐるのだといつてわるければ、ゐるのだらうといつてもよい。だが、そこに、餘裕といふものがなんとなくとぼしいといふ氣がする。ものを見直すといふことを、直視するのをきらふといふ弊を、なにとやら如實に語つてゐるかと思ふ。で、また、もしさうでなければ、美に對しての感じがすこぶる鈍いといふことになる。しかし、ちと恐ろしいことだとわたしは教へられたものがある。
これが、殊に、ただ氣忙しさに、一生を怱忙と暮す人々ならば、氣のつかぬもあたりまへのことで、こんなことをいふのは、テンから間違つてゐることだが、すくなくも今ここにいふ人たちは、さうしたことに關心のない人たちではないので、ちよいと首を捻つたわけだが、もとより何にも口にしないで、じつと心の眼で見ていつた人は幾人かあらう、口にするのを嫌味にさへ思ふ人たちも多いであらう。だがまた、それとはあまりにかけ離れた、實につまらない人事には、これはまたあまりに敏感すぎる人の多いのも事實だ。
ここに、若い男の例
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