れこそ思いもかけぬ高びしゃであったのだろう、信州の興行人は彼女の見識に煙にまかれて手を引いてしまった。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。
故子爵|秋元興朝《あきもとこうちょう》氏は、呂昇会をつくろうと同族間を奔走されたほどであった。貴族のなかでも、柳原伯、松方侯、井上侯、柳沢伯、小笠原伯、大木伯、樺山《かばやま》伯、牧野男、有馬伯、佐竹子などは呂昇贔屓の錚々《そうそう》たる顔ぶれであり、実業家や金満家には添田寿一《そえだじゅいち》氏、大倉喜八郎氏、千葉松兵衛氏、福沢捨次郎氏、古河虎之助氏などは争って邸宅へ招じた後援者であった。崇拝者にいたっては榊原《さかきばら》医学博士をはじめ数えてはいられぬほどある。大蔵大臣であった山本達雄氏などは大阪にゆくときっと呂昇をよんで、寵妓《ちょうぎ》の見張りを申附けられるまでに心安立《こころやすだて》のなかであった。夫人連にもそれに劣らぬ贔屓の競争があったが、鳩山《はとやま》春子女史が以前は大嫌いであった義太夫節が、呂昇を聴いてから急に呂昇びいきになったというのにも、呂昇の角《かど》のない交際ぶりと、性格の一面が見えるではないか。
呂昇の芸に
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