有楽座が彼女を招いたおりの高給は、いまでは有楽座にとってはなんでもない額になってしまった。有楽座の弗箱《ドルばこ》といわれるほど、呂昇が出れば満員つづきなのである。そしてまた、呂昇にとっても有楽座は大事な席であった。彼女が東京で得た知己は、彼女に輝かしい光彩を添えたのはいうまでもない。それあればこそ、彼女は長年の苦境をぬけて、専属していた大阪の松の亭からはなれ、自由になるようにもなり、阪地の名ある太夫の仲にあっても、巍然《ぎぜん》と、呂昇の看板を高くかかげられる位置になったのである。呂昇が東京に盛名を得たのは鴈治郎の全盛期の半《なかば》頃からであったと思う。なかごろ呂昇は咽喉《のど》をいためたことがある。彼女のあの嬌音はもう昔のものとなってしまうのかと、その折は特別に贔屓《ひいき》というほどでないものでさえおしんだ。彼女の病気には、高価なラジウムが用いられてあるということも噂《うわさ》された。手をつくした治療の結果は、決して以前とかわらない声になったと伝えられた。それは今からたしか六、七年前の霜月頃のことであった。寒さと小雨のふる夜、泥濘《ぬかるみ》をことともせず、病気静養後の呂昇の出
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