いことではない。
 彼女の水々しい色白の丸顔とあの声を聴いていると、生れが明治六年だとはどうしても嘘のような気がする。来るたびに若くなって来るとは御定連《ごじょうれん》でさえも洩らす讃美である。彼女の生活が、芸術のためによって生きる意義を見出《みいだ》すとき、彼女が永遠に若き生命の所有者であることを認めなければなるまい。私は思う、彼女はこの後ますます若くなるであろうという事を。そして彼女の芸はますます堂に入るであろうということを。
 呂昇の日常は、恒《つね》におだやかなものであるという。彼女の心静かに住みなす家には、召使いの一両人が、彼女の思念を乱さぬようにとつつましやかに仕えているという事である。そして彼女は、たった一人の息子《むすこ》とも離れて、全く孤独の芸術郷に暮している。彼女は信仰のかたい聖徒《クリスチャン》であるという。当今《いま》こそ彼女に物質の憂いはないが、かなり売出しのころには悲惨を嘗《な》めたのであった。

 私はすこしばかり彼女の経歴の断片を知っているが、彼女は名古屋に生れ永田なかというのが本名である。父は尾州《びしゅう》家の藩士であったが維新後塩物問屋をいとなんで
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