がたき別府の一夜《いちや》」の題下には、大正八年一月末に(『踏絵』が出てから数えて三年目)湯の町の別府に、宮崎氏が白蓮さんをたずねた。その後『解放』の同人たちに噂が高く、春秋の上京に、散歩、観劇などを共にしていたとある。
雑誌『解放』は、吉野博士を中心にして、帝大法科新人会の人たちが編輯《へんしゅう》をしていた、高級な思想文芸雑誌だった。白蓮女史の劇作「指鬘外道《しまんげどう》」を掲載することについて、誰かがうちあわせにゆくことになり、宮崎氏がいったのだった。そのあとでは、宮崎氏の机上はうずたかくなるほど、電報で恋の歌がくるというので、みんなが羨《うらや》んだということだった。
この事件についての、世間の反響の一部分を、おなじ新聞からとってみると、廿三日のに、九大の久保猪之吉《くぼいのきち》博士夫人より江さんが――この夫妻も、帝大在学「雷会」時代からの歌人で、
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上京前に訪問したら、涙ぐんで、めいりこんでいて「伊藤が愛がないのでさびしくてしかたがない。高い崖《がけ》の上からでも飛降《とびお》りて死んでしまいたい」といっていたが、感情が昂《こう》じてこんな事になったのか、ある意味で白蓮さんはうた[#「うた」に傍点]を実行されたのだ。
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と語っている。
また、九条武子さんは、まあ[#「まあ」に傍点]と大きな吐息をついて、
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只今が初耳でございます、随分思いきった事をなさいましたねえ。あの方とは、昨年お目にかかりました後《のち》は、お互にちょいちょいゆき来《き》はしておりますが、唯うた[#「うた」に傍点]のお友達というだけ、それほど深い話もありません。先日も九州でおめにかかりましたが、それほど深いお悩みのあることは、素振《そぶり》にもお見せになりませんでした。御主人は太っ腹な、それは気持ちのいい方です。まさか短気なことは遊ばしはしませんでしょうね。お年もとり、御思慮も深い方ですが、どうなる事でしょう。
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と、さすがに友達の身を案じて、じっとしてはいられぬという面《おも》もちだったとある。
博多中券《はかたなかけん》の芸妓ふな子は二十歳で、白蓮さんに受出されて、おていさんという本名になって、伊藤家にいる。その女《ひと》のいうのには、
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※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは、お父さまにつかえているつもりだといって、平生《へいぜい》からさびしそうにしていたが、(私が)妾《めかけ》になったのもうけだされたのも、奥さまからなので、嫌《いや》だけれど納得したのに――
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といっている。
廿三日附朝刊には、論説も「※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子事件について」とあって、その概略をつまんでみると、
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※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子の事件はあくまで慨嘆すべきものか、あるいはかえって謳歌《おうか》すべきものか、吾人《ごじん》はこれを報道した責任として、ここにいささか批評を試みたい。(略)
彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならない――
――※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子事件の真相と※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
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といっている。
廿五日ごろになると、帝大法科の教授連が批判回避の申合せをし、白蓮問題は、暫《しばら》く何もいうまいということになったが、牧野、穂積《ほづみ》両博士が興味をもっているとあり、投書の「鉄箒《てつそう》」欄が段々やかましくなっている。
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白村《はくそん》の近代の恋愛観のエッセイを読み続けてゆくと、家名、利害をはさまず、人格と人格の結合、魂と魂との接触というが、白蓮、伊藤、宮崎|各々《おのおの》辿《たど》るべきをたどった。(鉄箒)
「法廷に立て」伝右衛門が白蓮女史に送った手紙誰が書いたのか、甚だもって伝右衛門らしくない。彼がとる態度は、有夫|姦《かん》の告訴、白蓮は愛人をともなって法廷に立て。(鉄箒)
「栄華の反映」自分を崇拝している年下の男の方が、自分の弱点を知る石炭みたいな男より我儘が出来るのが当然だが愛がなくてもの同棲十年は、相当|情誼《じょうぎ》を与えたはずだ。(鉄箒)
天才は不遇な裡《うち》に味もあれば同情もあるのだ――虚名を求めて彼女の轍《てつ》を踏むときバクレンとなるなかれ。(鉄箒)
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「鉄箒」欄がいっている伝右衛門の手紙というのを引きたいが、夕刊紙かまたは他紙のであったのか、見当らなかった。震災が中にあったので、とっておいた参考紙も失なってしまったのでいまではわからない。
で、柳原家の方では、合理的処置――円満離婚の上で自邸に引取る方針だ。その上で当事者の考えで解決するといい、宮崎氏は、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子はきっと保護する。ただ父に(滔天《とうてん》氏)叱《しか》られはしまいかと、いかにも若々しい学徒の純情でいっている。
厨川白村《くりやがわはくそん》氏の「近代の恋愛観」が廿回ばかりつづいて、やはり『東朝』に出ていた時分だったので、白村氏は「鉄箒氏」に答えて、
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――今日の見合いの方法に、改良を加え青年男女に正当な接触を与えるのが、今日の社会のために望ましい事である。私は本紙に、近代の恋愛観というのを草《そう》し、連載中※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子事件突発。近代生活の重要な問題として、概括的に一般に恋愛と結婚について述べたかの一文の中に、今回の事件について、凡《すべ》て私の見解にはあまり明瞭《めいりょう》すぎて、露骨なほど明かに書いておいたから、いま質問を受けるのを遺憾と思う。
――今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自ら妾《しょう》を夫に与えていた事、非難の点多し。これは外面的な、従属的なことである。
――今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)
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白蓮さんの方で、着物も指輪も手紙をつけて送りかえしたといえば、伝右衛門氏の側では、絶縁状は未開封のまま突きもどすといい、正式に離婚をするといっている。各々の立場が違って、宮崎氏の方は、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの環境から見ても、どこまでもああした、自覚的態度を強調させようとし、事件が大袈裟《おおげさ》になることは、もとより覚悟の上であったろうが、絶縁状の字句が、何やらん書生流で、ほんとに、心《しん》から底から、がまんのなりかねた女がつきつける手紙としては――情熱の歌人の書いたものとしては、おなじキッパリしすぎるなかに欠けたもののある感じと、踊らせよう、騒ぎたたせようとするいとがあるふうにも感じられる子供っぽい理窟《りくつ》、世馴《よな》れない腕白《わんぱく》さがあるのとは反対に、伝右衛門氏の方で、正式に離縁というのは、どことなく、どっしりして、わるあがきがちょっと去《い》なされたかたちにもとれる。
廿三日には隠れ家も知れて、黒ちりめんの羽織を着て、面《おも》やつれのした写真まで出ていた。軽い風邪《かぜ》で寝ていて、親戚《しんせき》の人にも面会を避けると、自殺の噂が立ったり、警察でも調べたとあった。
そのころ、丁度ワシントン会議のあったころで、徳川公爵や、加藤友三郎大将の両全権が、鹿島丸《かしままる》でアラスカの沖を通っている時に、日本からの無電は白蓮事件をつたえ、乗組の客はみんな緊張して、すさまじい論戦が戦わされた。それは廿四日のことだとも伝えてきた。
と、いうだけでも、どんなにこの事件が、何処《どこ》もかもを沸騰させたかということがわかるではないか。まして生家の御同族がたをや! 真に、白蓮※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子は身の置きどころもない観だった。
だが、ああいった武子さんは、自分で綿入れを縫って隠れ家へ届けている。
わたしが訪ねたのは、もう写真班の攻撃もなくなった、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの廻りも、やっと落附いてきた時分だった。山本安夫と表札は男名でも、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんと台所に女の人がいただけだった。ふと、痩《や》せた女《ひと》の、帯のまわりのふくよかなのが目についた。そのことを、どこの何にも書いてなかったのは、気がつかなかったのかも知れないが、煩《うる》ささが倍加しなくてよかったと、わたしは心で悦んでいた。晒《さら》し餡《あん》で、台所の婦人《ひと》がこしらえてくれたお汁粉《しるこ》の、赤いお椀《わん》の蓋《ふた》をとりながら、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんが薄いお汁粉を掻《か》き廻している箸《はし》の手を見ると、新聞の鉄箒欄の人は、自分を崇拝している年下の男の方が、我儘が出来るのは当然だがといったが、どんなところから割出したものかと思った。昨日《きのう》までは、精神的の苦痛はあっても、いわゆる我儘な生活が出来たのだ。こんどは、精神的幸福はあっても、我儘な生活が出来るわけがないではないかといいたかった。ほんとの、生きた生活に直面するのに――生きた生活とは、そんな生優《なまやさ》しいものではない。
長男|香織《かおり》さんは生れた。生れる子供の籍だけは、こちらへほしいとは伝右衛門氏の願いだった。柳原家で拒んだのだという。生れた子のことで、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは姿をかくさなければならなかった。わたしは子供を離さずに転々していた※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんを、あんなに好いたことはなかった。昨日は下総《しもうさ》に、明日《あす》は京都の尼寺にと、行衛《ゆくえ》のさだまらないのを、はらはらして遠く見ていた。あとでの話では、かえってその時分は経済的に楽だったのだということで、何処かしらから物質は乏しくなく届いていた。愁《つら》かったのは宮崎家の人となってから、馴《な》れぬ上に、幼児は二人になり、竜介氏は喀血《かくけつ》がつづいて――ただ一人のたよりの人は喀血がつづく容体で――その時の心持ちはと、あるとき、語りながら※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは面《おもて》をふせた。
※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは働きだした。達者《たっしゃ》に書いた。長編小説でもなんでも書いた。選挙運動には銀座の街頭にたって、短冊《たんざく》を書いて売った。家庭には荒くれた男の人たちも多くいるし、廃娼《はいしょう》したい妓《ひと》たちも飛込んできた。そのなかで一ぱいに立ち働らきもする。かつての溜息《ためいき》は、栄耀《えよう》の餅《もち》の皮だと悟りもした。
いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
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筑紫のころ
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われはここに神はいづこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
和田津海《わだつみ》の沖に火もゆる火の国にわれあり誰《た》そや思はれ人は
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
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その後《ご》
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思ひきや月も流転《るてん》のかげぞかしわがこし方《かた》に何をなげかむ
かへりおそきわれを
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