白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、神田錦町《かんだにしきちょう》の三河屋という西洋料理やで披露があったとき、佐佐木信綱先生から、御招待があったのでいったときだった。柳原伯夫人のお姉さんの、樺山《かばやま》常子夫人が介添《かいぞえ》で、しっとりとしていられたが、白蓮さんには『踏絵』で感じた人柄よりも、ちょく[#「ちょく」に傍点]で、うるおいがないと思ったのは、あまりに、『踏絵』の序文が、
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「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫《つくし》の果《はて》にあり。――半生|漸《ようや》くすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。――さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこの三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われらの喜びとするところなり。
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こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、情熱的《パッショネート》ななかに、悲しい諦《あき》らめさえみせているので、感じやすいわたしは自分から、すっかりつくりあげた人品《ひとがら》を「嫦娥《じょうが》」というふうにきめてしまっていたのだった。『踏絵』の装幀《そうてい》が、古い沼の水のような青い色に、見返しが銀で、白蓮にたとえたとかきいたが、それからくる感じも手伝って、嫦娥と思いこませ、この世の人にはない気高さを、まだ見ぬ作者から受取ろうとしていた。
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細《ほそ》やかに美しい、凛《りん》としているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌《うた》から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体《からだ》で包んでしまった、この玲瓏《れいろう》たる貴女《きじょ》を、貴下《あなた》の筆で活《いか》してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫の衣《きぬ》を重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬《たと》えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫に透《す》いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。
たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっぱらいすぎてはいたが、昔ならば、女御《にょご》、后《きさき》がねとよばれるきわの女性が、つくし人《びと》にさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいた読《よみ》ものを好むとあれば、わたしの儚《はかな》んだロマンスは上々のもので、かえって実在の人を見て、いますこしうちしめりておわし候え、と願ったのもよんどころない。それほどに『踏絵』一巻は人の心をとらえた。
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われは此処《ここ》に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地《あめつち》の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来《き》しごとも歌|反故《ほぐ》いだき立てる火の前
吾《われ》は知る強き百千《ももち》の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地《あめつち》の一大事なりわが胸の秘密の扉《とびら》誰《たれ》か開きぬ
わが魂《たま》は吾《われ》に背《そむ》きて面《おも》見せず昨日《きのう》も今日も寂しき日かな
骨肉《こつにく》は父と母とにまかせ来ぬわが魂《たましい》よ誰れにかへさむ
追憶の帳《とばり》のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のあり吾《われ》には続く悲しびのあと
誰《たれ》か似る鳴けようたへとあやさるる緋房《ひぶさ》の籠《かご》の美しき鳥
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歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
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殊更《ことさら》に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わが足は大地《だいち》につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくづるる夕べ
おとなしく身をまかせつる幾年《いくとし》は親を恨みし反逆者ぞ
殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合の床《とこ》
昔より吾《われ》あらざりし其世より命ありきや鈴蘭の花
息絶ゆるその刹那《せつな》こそ知るべくや死《しに》の趣《おもむき》恋のおもむき
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三十三歳の豊麗な、筑紫《つくし》の女王白蓮は、『踏絵』一巻でもろもろの人を魅了しつくしてしまって、銅御殿《あかがねごてん》の女王火の国の白蓮と、その才華美貌を讃《たた》える声は、高まるばかりであった。伝右衛門氏は、それほどの女性《ひと》を、金で掴《つか》んでいるというふうに、好意をよせられないのもしかたがなかった。
だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが――
三
大正十年十月廿二日の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史|失踪《しっそう》のニュースが、全面を埋《う》めつくし、「同棲《どうせい》十年の良人《おっと》を捨てて、白蓮女史情人の許《もと》へ走る。夫は五十二歳、女は二十七歳で結婚」と標柱して、左角の上には、伊藤|※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》の最近の写真の下に宮崎|竜介《りゅうすけ》氏のが一つ枠《わく》にあり、右下には、伊藤伝右衛門氏と※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの結婚記念写真が出ていた。
その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の島屋《しまや》へかえらず、いなくなってしまったということや、恋人は帝大新人会員の宮崎竜介氏であることや、結婚の間違っていたことや、柳原家の驚きや、まだ福岡の伊藤氏は知らないということが、紙面一ぱいで、誰にも、ああと叫ばせた。
次の日、廿三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんからの最後の手紙――絶縁状が出た。
全文を引かせてもらうと、
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私は今貴方《あなた》の妻として最後の手紙を差上げます。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は愚《おろか》にもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛と力とをこの中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私が儚《はか》ない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬《やるせ》ない涙を以ておおわれました。私の期待は凡《すべ》て裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論《もちろん》です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私との間に真の愛や理解が育《はぐく》まれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里方《さとかた》に預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく従って妻としての価《あたい》を認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢《はか》なんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁を抑《おさ》えて今日まで参りました。この不遇なる運命を慰めるものは、唯《ただ》歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手《いたで》から私の生涯は所詮《しょせん》暗い帳《とばり》の中に終るものだと諦《あきら》めた事もありました。しかし幸《さいわい》にして私には一人の愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖《おそ》れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。虚偽を去り真実につくの時がまいりました。依《よ》ってこの手紙により私は金力《きんりょく》を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別《けつべつ》を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護《まも》りかつ培《つちか》うために貴方の許《もと》を離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対しては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山《てるやま》支配人への手紙に同封しました目録通り、凡《すべ》てそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時《いつ》でも捺印《なついん》致します。
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十月廿一日[#地から2字上げ]※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子
伊藤伝右衛門様
この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はお釜《かま》の湯が煮えこぼれるような、大騒ぎになっていた。各新聞社は、隠れ家《が》の捜索に血眼《ちまなこ》だったが、絶縁状が『朝日新聞』だけへ出ると物議はやかましくなった。しかも、その手紙が、肝心な夫《おっと》伝右衛門氏の手にはまだ渡っていないのに、新聞の方がさきへ発表したというので騒いだ。黒幕があるというのだ。
おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った――
「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
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互《たがい》の世界はちがっていても、謙遜《けんそん》しあうのが夫婦の道、だが絶縁状を見たうえは、何とか処置する。
勿論、今朝《けさ》の(廿二日)新聞で事情の大略は知ったが、しかし、そんな事が実際あるべきものとは思われない。※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子としても、そんな無分別なことを果してしたものだろうか、本月末には博多《はかた》に帰って来る約束をしてある。家庭のことを振りかえって見ても、不愉快や、不満に思うふし[#「ふし」に傍点]は毛頭《もうとう》あるはずがないと思います。随分|我儘《わがまま》な女です。何不自由なく、世間《せけん》から天才とか何とかいわれるまで勉強もさせ、小遣《こづかい》だって月五十円はおろか一万円にものぼることすらある。あの女を、伊藤なればこそ養っているなどと噂《うわさ》もある。
それは柳原さんや、入江《いりえ》さんも知っている。
私は田舎者の無教育ですから、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ小言《こごと》をいった事はありません。
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「忘れ
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