待ちかね寝《いね》し子の枕辺《まくらべ》におく小さき包
子らはまだ起きて待つやと生垣《いけがき》の間《あい》よりのぞく我家のあかり
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくて生《いき》の身のわがふみてたつ大地はめぐる
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なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の生菩薩《いきぼさつ》さまが来られるときいて有頂天《うちょうてん》になり、座ぶとんは揃《そろ》えて、緞子《どんす》、夜具類はちりめん、襖《ふすま》をはりかえさせ、調度は何もかも新しく、善つくし、美を尽さねばならぬときめた。それはおなじ九州のある豪家へ武子さんが招《よ》ばれた時には、何千円かを差上げて来ていただいたというのに、我家《わがや》へは無償でこられるということより何より、それほどの人にわが成金《なりきん》ぶりと、何処にも負けない豪奢《ごうしゃ》ぶりを見せなければおさまらないのだった。それをふと、
本願寺さまだってお手|許《もと》が――武子さんはそんなにおごってはいません、といってしまったらば、急に見下げて、何もかも新しい調度は取消しにして、何もさせないので困ってしまったということだ。
それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄みたる月は暴風雨《あらし》のあとにこそ来る。あらしはすぎた。※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんのこしかたも大きな暴風雨《あらし》だった。
[#地から2字上げ]――昭和十年九月十七日――
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※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの生母《おかあ》さんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若くて死んだお母さんは、柳橋でお良《りょう》さんと名乗り、左褄《ひだりづま》をとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんを姪《めい》だということを、どんな親しい人にも言ったことがないほどかたい人だった。この姉妹は幕末の外国奉行|新見豊前守《にいみぶぜんのかみ》の遺児だという。ここにも悲しき女《ひと》はいたのだ。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
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