こんなこととは、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの兄さんの柳原伯が、わたくしの母をわざわざ横浜の手前の生麦《なまむぎ》まで訪《たず》ねられて、続稿を、やめさせてくれまいかと頼まれたのだった。箱入り一閑張りの、細長い柱かけの、瓢箪《ひょうたん》の花入れのお土産《みやげ》を取出して見せながら、母は言い憎そうにいうのだった。わたしは、そのふらふら[#「ふらふら」に傍点]瓢箪をみながら、止《や》めるとも止めないともいわないで、母のいうことだけきいていた。
「お困りだそうだから――」
わたしはただ笑った。ありとある新聞が、徹底的に書きつくしたのに、今になってと。だが、その、今になってが困るのかなと思った。だが、母の弱さにも嘆息《ためいき》した。母は合資《ごうし》の、倒れかけた紅葉館《こうようかん》を建て直して、儲《もう》けを新株にして、株式組織に固め、株主をよろこばせたうえで、追出《おいだ》された。年老いて、我家《わがや》も投《ほう》り出しておいて、故中沢彦吉さんに見出《みいだ》されたからと、意気に感じて、夜《よ》の目も眠《ね》ないで尽した誠実はみとめられずに、喧嘩《けんか》のように出されて、子たちがいる家にも足むけが出来ないと、死にもしかねない有様に、当時、草|茫々《ぼうぼう》とした、破《あば》ら家《や》を生麦に見つけだして、そこに連れて来てあげて、やっと心持ちを柔らげさせたのではなかったか。そのおり、利益のあったときには、長谷川さん長谷川さんとやさしくした株主のだれが、優しい言葉をかけたか? もとより、無智だった母の、法律的なことは知らずに、感情からのゆきちがいはあったとしても、権利、義務を主とした会社ではなく、酒と媚《こび》の附属する料理店で、お客であって株主でもある人たちは、一番やすく遊んで食べて、利益も得ている、その株主の一人で柳原さんもあったのだ。顔馴染《かおなじみ》を利用するのが、あんまり現金すぎるとも思い、引受けた母までが嫌《いや》だった。だからといって、それとこれを混じて、ものを書くような卑劣さを持つかとおもわれるより、そう思うほうが、よっぽど賤《いや》しいと思ったのだった。だが、原稿の続きは出なかったのだ。ガン張っても誌面は自分のものでないから、どうにもしようがなかったのだ。だから、つづきはわるいが、ここからは新しく書くことにする。
白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、神田錦町《かんだにしきちょう》の三河屋という西洋料理やで披露があったとき、佐佐木信綱先生から、御招待があったのでいったときだった。柳原伯夫人のお姉さんの、樺山《かばやま》常子夫人が介添《かいぞえ》で、しっとりとしていられたが、白蓮さんには『踏絵』で感じた人柄よりも、ちょく[#「ちょく」に傍点]で、うるおいがないと思ったのは、あまりに、『踏絵』の序文が、
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「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫《つくし》の果《はて》にあり。――半生|漸《ようや》くすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。――さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこの三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われらの喜びとするところなり。
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こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、情熱的《パッショネート》ななかに、悲しい諦《あき》らめさえみせているので、感じやすいわたしは自分から、すっかりつくりあげた人品《ひとがら》を「嫦娥《じょうが》」というふうにきめてしまっていたのだった。『踏絵』の装幀《そうてい》が、古い沼の水のような青い色に、見返しが銀で、白蓮にたとえたとかきいたが、それからくる感じも手伝って、嫦娥と思いこませ、この世の人にはない気高さを、まだ見ぬ作者から受取ろうとしていた。
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細《ほそ》やかに美しい、凛《りん》としているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌《うた》から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体《からだ》で包んでしまった、この玲瓏《れいろう》たる貴女《きじょ》を、貴下《あなた》の筆で活《いか》してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫の衣《きぬ》を重ねて着てい
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