るような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬《たと》えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫に透《す》いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。
 たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっぱらいすぎてはいたが、昔ならば、女御《にょご》、后《きさき》がねとよばれるきわの女性が、つくし人《びと》にさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいた読《よみ》ものを好むとあれば、わたしの儚《はかな》んだロマンスは上々のもので、かえって実在の人を見て、いますこしうちしめりておわし候え、と願ったのもよんどころない。それほどに『踏絵』一巻は人の心をとらえた。

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われは此処《ここ》に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地《あめつち》の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来《き》しごとも歌|反故《ほぐ》いだき立てる火の前
吾《われ》は知る強き百千《ももち》の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地《あめつち》の一大事なりわが胸の秘密の扉《とびら》誰《たれ》か開きぬ
わが魂《たま》は吾《われ》に背《そむ》きて面《おも》見せず昨日《きのう》も今日も寂しき日かな
骨肉《こつにく》は父と母とにまかせ来ぬわが魂《たましい》よ誰れにかへさむ
追憶の帳《とばり》のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のあり吾《われ》には続く悲しびのあと
誰《たれ》か似る鳴けようたへとあやさるる緋房《ひぶさ》の籠《かご》の美しき鳥
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 歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
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殊更《ことさら》に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わが足は大地《だいち》につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくづるる夕べ
おとなしく身をまかせつる幾年《いくとし》は親を恨みし反逆者ぞ
殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合の床《とこ》
昔より吾《われ》あらざりし其世より命ありきや鈴蘭の花
息絶ゆるその刹那《せつな》こそ知るべくや死《しに》の趣《おもむき》恋のおもむき
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 三十三歳の豊麗な、筑紫《つくし》の女王白蓮は、『踏絵』一巻でもろもろの人を魅了しつくしてしまって、銅御殿《あかがねごてん》の女王火の国の白蓮と、その才華美貌を讃《たた》える声は、高まるばかりであった。伝右衛門氏は、それほどの女性《ひと》を、金で掴《つか》んでいるというふうに、好意をよせられないのもしかたがなかった。
 だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが――

       三

 大正十年十月廿二日の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史|失踪《しっそう》のニュースが、全面を埋《う》めつくし、「同棲《どうせい》十年の良人《おっと》を捨てて、白蓮女史情人の許《もと》へ走る。夫は五十二歳、女は二十七歳で結婚」と標柱して、左角の上には、伊藤|※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》の最近の写真の下に宮崎|竜介《りゅうすけ》氏のが一つ枠《わく》にあり、右下には、伊藤伝右衛門氏と※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの結婚記念写真が出ていた。
 その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の島屋《しまや》へかえらず、いなくなってしまったということや、恋人は帝大新人会員の宮崎竜介氏であることや、結婚の間違っていたことや、柳原家の驚きや、まだ福岡の伊藤氏は知らないということが、紙面一ぱいで、誰にも、ああと叫ばせた。
 次の日、廿三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんからの最後の手紙――絶縁状が出た。
 全文を引かせてもらうと、
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私は今貴方《あなた》の妻として最後の手紙を差上げます。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は愚《おろか》にもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛と力とを
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