この中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私が儚《はか》ない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬《やるせ》ない涙を以ておおわれました。私の期待は凡《すべ》て裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論《もちろん》です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私との間に真の愛や理解が育《はぐく》まれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里方《さとかた》に預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく従って妻としての価《あたい》を認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢《はか》なんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁を抑《おさ》えて今日まで参りました。この不遇なる運命を慰めるものは、唯《ただ》歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手《いたで》から私の生涯は所詮《しょせん》暗い帳《とばり》の中に終るものだと諦《あきら》めた事もありました。しかし幸《さいわい》にして私には一人の愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖《おそ》れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。虚偽を去り真実につくの時がまいりました。依《よ》ってこの手紙により私は金力《きんりょく》を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別《けつべつ》を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護《まも》りかつ培《つちか》うために貴方の許《もと》を離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対しては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山《てるやま》支配人への手紙に同封しました目録通り、凡《すべ》てそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時《いつ》でも捺印《なついん》致します。
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十月廿一日[#地から2字上げ]※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子
伊藤伝右衛門様
この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はお釜《かま》の湯が煮えこぼれるような、大騒ぎになっていた。各新聞社は、隠れ家《が》の捜索に血眼《ちまなこ》だったが、絶縁状が『朝日新聞』だけへ出ると物議はやかましくなった。しかも、その手紙が、肝心な夫《おっと》伝右衛門氏の手にはまだ渡っていないのに、新聞の方がさきへ発表したというので騒いだ。黒幕があるというのだ。
おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った――
「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
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互《たがい》の世界はちがっていても、謙遜《けんそん》しあうのが夫婦の道、だが絶縁状を見たうえは、何とか処置する。
勿論、今朝《けさ》の(廿二日)新聞で事情の大略は知ったが、しかし、そんな事が実際あるべきものとは思われない。※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子としても、そんな無分別なことを果してしたものだろうか、本月末には博多《はかた》に帰って来る約束をしてある。家庭のことを振りかえって見ても、不愉快や、不満に思うふし[#「ふし」に傍点]は毛頭《もうとう》あるはずがないと思います。随分|我儘《わがまま》な女です。何不自由なく、世間《せけん》から天才とか何とかいわれるまで勉強もさせ、小遣《こづかい》だって月五十円はおろか一万円にものぼることすらある。あの女を、伊藤なればこそ養っているなどと噂《うわさ》もある。
それは柳原さんや、入江《いりえ》さんも知っている。
私は田舎者の無教育ですから、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ小言《こごと》をいった事はありません。
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「忘れ
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